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「太子の御墓は、石のたたずまひも、まことにさる御陵とおぼえて、こころ留まるをりふし、 如法教を行うも、結縁うれしくて、小袖を一つ参らせて帰りはべりぬ」 (後深草院二条「とはずがたり」巻4) (聖徳太子のお墓は、石のたたずまいも、本当にその様なお方の御陵と思われて、心惹かれる折も折、如法教供養を行っていたのも、結縁するのが嬉しくて、小袖一つを差し上げて帰りました。) その先、即ち叡福寺の北端に聖徳太子の御廟があった。その前を、二天門とそれに続く廻郎、鐘楼が守護 していた。 二天門をくぐると、正面中央にに「三骨一廟」と呼ばれる御廟(磯長墓)があり、少し離れた西側に「上 の御堂」、東側に「浄土堂」が建っていた。 御廟は円墳ということだが、玉垣で囲まれ、近づけないし、墓自体が木々に覆われているので、 全体像は分らず、正面から拝するだけだった。 叡福寺境内 南大門から先正面には御廟の二天門、その奥に御廟がある。 左手前の建物(一部)は金堂(重文)と聖霊殿(重文) 二天が祀られ、御廟の前に建つ門。 元禄元年(1688)印南藩主・高木主水正が廻廊、上の御堂、鐘楼などと一緒に寄進した。 二天像 二天門の左右に安置されている二天像。向って左が増長天、右が持国天 聖徳太子御廟(磯長墓) 御廟(磯長墓)は高さ7.2m直径54.3mの円墳で、南を入口とする横穴式石室があるという。現在は墓道を覆う建物を、三重の破風が飾っている。 推古天皇29年(621)崩御の穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇后(聖徳太子の生母)、翌年大和斑鳩宮において、時を同じくして亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎女(カシワベノオオイラツメ)の3人が葬られていることから「三骨一廟」と呼ばれる。ここは宮内庁の管理下である。 元禄元年(1688)印南藩主・高木主水正が二天門、廻廊、鐘楼などと一緒に寄進したもの。 聖徳太子35歳像が祀られている。 慶長2年(1597)伊藤加賀守秀盛が再建 本尊:阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩) 弘法大師が参籠の時、九十九夜に渡って御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたという。 この様子を模写したものと伝えられる。 元禄元年(1688)印南藩主・高木主水正が廻廊、上の御堂、鐘楼などと一緒に寄進したもの。 「日本書紀」巻第二十二 推古天皇 二十九年(註参照)の春二月の己丑朔にして癸巳に、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。 是の時に、諸王、諸臣と天下の百姓、悉くに長老は愛児を失へるが如くして、塩酢の味、 口に在れども嘗めず。 少幼は慈の父を亡へるが如くして」、哭き泣する声、行路に満てり。 乃す耕す夫はすきを止み、いねつく女は杵せず。 皆いはく、「日月輝をうしなひ、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃まむ」という。 是の月に、上宮太子を磯長陵に葬りまつる。 註:二十九年は辛巳で「天寿国繍帳銘」や「法隆寺金堂釈迦像銘」によると太子の母王の薨じた年。 太子はその翌年(三十年壬午)2月22日薨じた。 これら2つの銘や「法起寺塔露盤銘」から「日本書紀」の太子の薨年は誤りとみられている。 |
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2010年11月21日
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