ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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南宗寺を出て、堺駅に向ってぶらりぶらり歩いていると、村野紹鴎屋敷跡碑や千利休屋敷跡があった。

彼らの屋敷と南宗寺は直ぐ近くで、茶道を完成させた彼らの交わりの理由が分るような気がした。

更に歩み、堺のメインロード、大道筋に出ると、与謝野晶子の生家跡の碑が建っていた。


イメージ 1 「村野紹鴎屋敷跡」碑
村野紹鴎は文亀2年(1502)大和国生まれ、後に堺に移った。
皮屋の号を持つ豪商の一人
若い頃京で三条西実隆に和歌を、村田珠光一門に茶の湯を学び、堺に帰り津田宗及、今井宗久、千利休らに珠光のわび茶を伝えた。
茶人北向道陳らと交友し、南宗寺の開祖大林宗套に禅を学んだ。

イメージ 2 千利休屋敷跡
この屋敷跡には利休が常用していたといわれる「椿井」がある。

千利休は豪商魚屋(トトヤ)の長男として生まれ、名は与四郎。初め北向道陳に茶道を学んだが、更に、武野紹鴎に師事し、ついに「わび茶」を大成させた。
千与四郎は茶名を千宗易といい、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。
天正15年(1687)10月秀吉の北野大茶会を司り、秀吉に次いで二番の席を設けるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、さび、さびの境地を切り開いた。
その根底には大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたが考えられる。
その後、天正19年(1591)2月秀吉の怒りを買い、京都から追放されて堺に謹慎していたが、京都に呼び戻され2月28日切腹させられた。

イメージ 3 「与謝野晶子生家跡」碑
没後20年にあたる昭和36年(1961)建立
海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ    少女となりし 父母の家
と明治37年(1904)「明星」に初出された歌の一首が彫られていた。


与謝野晶子は明治11年(1875)菓子商駿河屋を営む鳳宗七の三女として生まれ、明治34年(1901)与謝野鉄幹のもとへ上京するまで堺の街で過ごした。
駿河屋は旧紀州街道に面していたが拡幅の為敷地の大部分は現紀州街道(大道筋)になっている。

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