ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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平城宮跡の東北に法華寺はあった。

法華寺は聖武天皇の皇后・光明皇后が創立した寺である。

聖武天皇が東大寺を建立し、総国分寺として男僧の仏法修行の道場と定めたのに対し、女人修行の

根本道場として、また皇祖の菩提と国家平安を祈願したものだ。

天平勝宝5年(753)光明皇后は父藤原不比等の邸宅を寺院とし七堂伽藍を造営し、、比丘尼の仏法修行

道場として、これを総国分尼寺と定めた。

彼女自身も、行基を戒師として落飾し、「則真」と号した。

この時、天皇の行幸あり宸筆紺帋金泥の法華経を納められた。

それにより、寺の号を「法華滅罪之寺」と名付けられたが、後に略して「法華寺」と呼ぶようになった。

当初は、現在の寺域より南側広がりに東西両塔、金堂、講堂などの堂宇が備えた大伽藍であった。

しかし、時と共に衰退し、治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちにもあって荒廃した。

鎌倉時代に入り東大寺を復興した重源や、西大寺を復興した叡尊により復興がなされた。

しかし、室町時代以降は兵火や、自然災害にあってほとんどの伽藍を失った。

桃山時代になり、豊臣秀頼、淀殿の寄進により、本堂、鐘楼、南門が再建された。

長い歳月を経て、かっての隆盛の様子は覗えないが、尼寺らしい清楚な雰囲気のただずまい中に門跡寺院

としての格式を今に伝えている。

なお、宗派としては、叡尊が再興した時から真言律宗に属していたが、平成11年(1999)に光明宗として独

立した。


イメージ 1 南 門
慶長6年(1601)再建 重文
法華寺の正門
本堂の真南に建つ四脚門。



イメージ 2 赤門(東門)
一般拝観者の通用門である。



イメージ 3 鐘楼・護摩堂
鐘楼:慶長6年(1601)再建 重文
   袴腰付き
護摩堂:平成16年(2004)再建
    不動明王坐像を安置



イメージ 4 本 堂
創建当時講堂のあった位置に
慶長6年(1601)再興 重文
本尊十一面観音立像は、インドの仏師・問答師が、光明皇后が蓮池を渡る刹那を写したといわれるものだが厨子に納められていた。代わりに近くに御分身が安置されていた。
御分身は昭和40年(1965)インド政府に依頼して造像した、白檀一木造りの十一面観音像を拝観できた。
ほかに、維摩居士坐像(重文)、恵心僧都作といわれる聖徳太子像(2歳像、3歳像)、弘法大師像や、かって金堂に安置されていた仏像の頭部(3体 重文)などを拝観することができた。


イメージ 6 会津八一の歌碑
歌人・会津八一が光明皇后を写したと伝わる本尊・十一面観音像の唇の瑞々しい美しさを詠んだとされる。
ふじわらの おほききさきを うつせみに
 あひみるごとく あかきくちびる


イメージ 5 横笛堂
滝口入道との恋に破れた横笛が尼となった後住んだとされる。
なお、南の築地外にあったのを現在地に移築
堂内に描かれた壁画は鎌倉時代の作と言われている。
なお、本堂内での向かって左隅に、滝口入道との間に交わした文がらをもって自作したという「横笛の坐像」が安置してあった。
―関連記事―
横笛と滝口入道の悲恋の寺・滝口寺1

本尊:十一面観音像について

『興福寺濫觴記(コウフクジランショウキ)』という本は信用のできるものではあるまいが、その中に次のようなことを伝えている。
――北天竺乾陀羅(ガンダーラ)国の見生王は生身(ナマミ)の観世音を拝みたくて発願入定三七日に及んだ。その時に、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝めという告げがあった。
大王夢さめて思うに、万里蒼波(バンリソウハ)を渡って遠国に行くということは到底実現しがたい。
そこで再び一七日(イチシチニチ)入定して祈った。
今度は、巧匠をやって彼女の形像を模写させて拝むがいいとあった。
王は歓喜して、工巧師を派遣した。それが天竺国首羯磨(ボシュカツマ)二十五世末孫文答師(モンドウシ)であった。
文答師は難波津に着いてこの由を官を経て奏上した。
皇后が仰せられるに、妾(ワタクシ)は大臣の少女(ムスメ)、皇帝の后宮である。
どうして異国大王の賢使などに逢えよう。
しかし、わたくしの願いをかなえてくれるならば逢ってもいい。
文答師は答えて何でもいたしましょうといった。
ちょうどそのころ皇后は亡き母橘夫人(タチバナブニン)のために興福寺西金堂を建てておられたので、文答師にその本尊阿弥陀如来の製作を依頼せられた。
文答師は、母公御報恩のためならば釈迦像がよろしゅうございましょう、昔利天(トウリ)で摩耶夫人(マタブニン)に恩を報ぜられた例がございます、と奏上した。
そこで釈迦像にきまった。本朝小仏師三十人が助手になった。脇士も彼によって造られた。
皇后は彼の製作場へ行かれたこともある。文答師が見ると、后のからだは女体の肉身ではなくして十一面観音の像に現われている。でそれをモデルにして三躯の観音をつくり、一つは本国へ持ち帰った。あとの一つは内裡に安置したが今は法華滅罪寺にある。
もう一つは施眼寺(セガンジ)に安置せられている。
                    (和辻哲郎「古寺巡礼」12 光明皇后と彫刻家問答師)

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