ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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不退寺を南に下ると、すぐに一条通りに出た。

一条通りは西は法華寺の南側を通り、東は東大寺転害門に到る東西に通じる道だ。

一条通りを東(すなわち、東大寺転害門方向)に向かって歩く。

やがて佐保川を渡る手前の北側に、聖武天皇・光明皇后陵入口があった。

拝所内の玉砂利道を北に向かって歩くと数分で聖武天皇陵があり、そこより右手に少し入ると光明皇后陵

があった。

天平を代表するお二方は、あたかも比翼塚といってよい様子で眠られていた。

藤皇后(光明皇后が聖武)天皇に奉る御歌一首
吾背子と 二人見ませば 幾許か この零る雪の 嬉しからまし
                                                   (「万葉集」巻8-1658)
(平城の都に雪が降りしきる日、背の君と肩をならべ、その雪を眺めていたならばどんなに嬉しいことでしょうか)



イメージ 1 聖武天皇・光明皇后陵入口
正面が聖武天皇陵、光明皇后陵は斜め右側にそれた奥にある。


イメージ 2 聖武天皇陵
佐保山南陵とも言われる。
聖武天皇(在位724〜749)は文武天皇と藤原宮子の皇子、幼名首(オビト)皇子
天正天皇から継いだ第45代天皇天平勝宝元年(749)娘の安倍内親王(孝謙天皇)に譲位
天平勝宝8年(756)崩御


イメージ 3 光明皇后陵
佐保山東陵とも言われる
光明皇后は藤原不比等と橘三千代の娘
因みに聖武天皇の母・藤原宮子は異母姉
天平宝字4年(760)崩御

「続日本紀」巻第22 淳仁天皇紀には天平宝字4年6月皇后が崩じた時、次のような追悼の文が記されてい

る。

・・・幼くして聡慧にして、はやく声誉を播けり

勝玄感神聖武皇帝儲弍(チョジ)とありし日、納れて妃としたまふ。時に年十六。

衆御を接引して、皆、その歓を尽くし、まさしく礼訓にならひ、あつく仏道を崇む。

(幼い時から聡明であることが知られていた。聖武天皇が皇太子であった時、妃となられた。この時16歳であった。多くの人々に接して皆その喜びを尽くすようにし、礼儀にかなった行いをし、仏道を篤く崇拝された。)

・・・太后(光明皇后)仁慈にして、志、物を救ふに有り。

東大寺と天下の国分寺とを創建するは、本、太后の勧めし所なり。

また、悲田・施薬の両院を設けて、天下の飢ゑ病める徒療し養す。

(光明皇后は慈悲深く、志は人々を救うことだった。東大寺や国分寺の創建は、光明皇后が天皇に勧めたの事による。悲田院、施薬院を設けて、天下の病者や飢えた者を救い養われた。)

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