ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物算を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くずれ逃れけり。

・・・・服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。 

毛利新介、義元を伐り臥せ、頸をとる。(太田牛一「信長公記」首巻)



再び国道1号線に出て、名古屋方面に約500m行った「桶狭間」から南に入りる。

約1km行った「幕山」で左手(東方向)に入ると、桶狭間古戦場公園があった。

田楽坪とも言われ、織田軍に急襲され、討取られた今川義元最後の地といわれている。

園内には「今川義元馬つなぎのねずの木」、「首洗いの泉跡」、「駿公墓碣(スンコウボケツ)」などがある。

また、戦450年を記念し、桶狭間に意たる史跡を配したジオラマ公園となっていた。

「信長公記」などの記述に拠れば、今川義元は、永禄3年(1560)5月12日駿・遠・三の2万5千余(「信長公

記」では4万5千)の兵を率いて駿府を出発、5月18日には沓掛城に入り、翌19日8時ごろ大高城に向け出発

した。

御敵今川吉本は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の息を休めこれあり(「信長公記」首巻)

先発の瀬名氏俊が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方落城させた鷲津・丸根砦の戦果を聞き

ながら休息していた。

昼頃、天気が急変し、雷雨となり、落雷により今川本体は大混乱状態になった。

他方、織田信長は19日4時ごろ清洲城で、鷲津・丸根砦が今川軍の攻撃を受けた報告を聞き、幸若舞の「敦

盛」を舞い、直ちに出陣した。 清洲城を出た時は主従僅か6騎。

8時ごろ熱田の宮に到着し、戦勝祈願する。その頃には千人余となっていた。

10時ごろ善照寺砦に着く。本陣をここにありと見せかけて、3千人余となった軍勢を雷雨の中を今川本陣

近くの釜ケ谷に進めた。

雨が止むや間髪をいれず今川軍に突撃した。

今川義元は織田信長家臣・服部小平太を切り倒すなどして応戦したが、最後は毛利新介に首を取られた。


イメージ 1 桶狭間古戦場公園入口



イメージ 2 近世の曙
槍を持つ織田信長と弓を手にする今川義元の像が建つ。



イメージ 3 「今川義元戦死の地」碑
「今川義元戦死の地」碑と共に「駿公墓碣(スンコウボケツ)」が置かれてあった。
「駿公墓碣(スンコウボケツ)」は田楽坪の「ねず塚」に埋められていたのを昭和28年(1953)偶然発見された。
造られた年代は不明。当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそりと供養したものと思われる。


イメージ 4 今川義元馬繋ぎのねずの木
碑の後の枯れ木。
着陣した今川義元が田楽坪の泉で水を飲む為に馬を繋いだ木と言い伝えられ、田の中の「ねず塚」として残されてきた。
この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えがある。


イメージ 5 今川義元首洗い泉跡
義元の首級をこの泉で洗い清めたといわれている


イメージ 6 桶狭間古戦場田楽坪の碑
今川家臣松井左衛門宗信(遠州二俣城主)の子孫松井石根(イワネ)が昭和8年(1933)古戦場址を訪れた時に揮毫し、郷土史家・梶野孫作が建碑したもの。


イメージ 7 大田錦城詩碑
大田錦城は江戸後期の儒学者。
文政3年(1820)旅の途中、桶狭間を訪れ詠んだものとされる。
桶狭間を過ぎ  大田錦城
荒原古を弔う古墳の前 
戦い克って将驕る何ぞ全きを得ん
快風雨を吹いて昼晦の如し
驚破す奇兵天より降るかと

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