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おけはざま山のほぼ西に位置する「桶狭間古戦場公園」から南に200mほど歩くと長福寺が建っていた。 和光山天沢院(ワコウサンテンタクイン)と号し、天文7年(1538)善空南立(ゼンクウナンリョウ)上人によって創建された西山浄 土宗の寺院である。 寺伝によれば、永禄3年(1560)桶狭間の戦の時、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者とな って率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。 本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主・林阿弥が義元供養の為納めたものと伝わる。 又、寺宝に、今川義元と家老・松井宗信の木造を所蔵する。 合戦当時、桶狭間は原野と畑が広がっていた。そして桶狭間古戦場公園東側から長福寺前には小川が流れ ており、合戦の際、人馬の血と雷雨で真っ赤に染まり、馬の鞍鎧などが流れたので、鞍流瀬川(クラナガセガ ワ)と呼んでいたそうだ。 しかし、今はすっかり宅地化が進み畑地が僅かに残るだけであり、戦死者の霊とも謂れるほど源氏ボタル が飛んでいた鞍流瀬川も昭和61年(1986)埋められて姿を消している。 古戦場公園から長福寺に向かう途中に碑が建っていた。 永禄3年5月17日義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣。 村上、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と大将今川義元が19日昼食する時の本陣を設営した。 陣跡の竹やぶを、里人は瀬名氏俊を偲び、「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいた。 昭和61年(1986)池の堤防工事により薮も取り壊され、今は竹を僅かに残されている。 長福寺寺標の石柱の後に建っていた。 哀れな戦死者を寺の阿弥陀如来に託す為、鞍流瀬川に浄土橋を架け、極楽往生を願った。 昭和61年(1986)の区画整理で鞍流瀬川も浄土橋も姿を消した。 長福寺境内の大杉附近で林阿弥が首検証を命じられ、後供養した所。 供養杉は伊勢湾台風で枯れ、2代目の杉である。 境内中央に建っていた。 供養碑の近くに置かれていた。 徳安風生は東大卒後逓信省に入り、同省次官に栄進した一方俳人としてもその才能を発揮し、ホトトギス派の重鎮として活躍した。 日本芸術院会員、勲一等瑞宝章叙勲 昭和54年(1979)没 昭和24年(1979)頃当寺を訪れ、今川義元の木造に供えた「額の花」を読んだ句 木像に そなへて暗き 額の花 |
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2011年12月24日
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