ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]


おけはざま山のほぼ西に位置する「桶狭間古戦場公園」から南に200mほど歩くと長福寺が建っていた。

和光山天沢院(ワコウサンテンタクイン)と号し、天文7年(1538)善空南立(ゼンクウナンリョウ)上人によって創建された西山浄

土宗の寺院である。

寺伝によれば、永禄3年(1560)桶狭間の戦の時、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者とな

って率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。

本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主・林阿弥が義元供養の為納めたものと伝わる。

又、寺宝に、今川義元と家老・松井宗信の木造を所蔵する。

合戦当時、桶狭間は原野と畑が広がっていた。そして桶狭間古戦場公園東側から長福寺前には小川が流れ

ており、合戦の際、人馬の血と雷雨で真っ赤に染まり、馬の鞍鎧などが流れたので、鞍流瀬川(クラナガセガ

ワ)と呼んでいたそうだ。

しかし、今はすっかり宅地化が進み畑地が僅かに残るだけであり、戦死者の霊とも謂れるほど源氏ボタル

が飛んでいた鞍流瀬川も昭和61年(1986)埋められて姿を消している。

イメージ 1 瀬名伊予守氏俊陣所跡
古戦場公園から長福寺に向かう途中に碑が建っていた。
永禄3年5月17日義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣。
村上、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と大将今川義元が19日昼食する時の本陣を設営した。
陣跡の竹やぶを、里人は瀬名氏俊を偲び、「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいた。
昭和61年(1986)池の堤防工事により薮も取り壊され、今は竹を僅かに残されている。




イメージ 2 「桶狭間古戦場由緒地跡」碑
長福寺寺標の石柱の後に建っていた。
哀れな戦死者を寺の阿弥陀如来に託す為、鞍流瀬川に浄土橋を架け、極楽往生を願った。
昭和61年(1986)の区画整理で鞍流瀬川も浄土橋も姿を消した。


イメージ 3 義元首検証之跡
長福寺境内の大杉附近で林阿弥が首検証を命じられ、後供養した所。
供養杉は伊勢湾台風で枯れ、2代目の杉である。



イメージ 4 桶狭間合戦供養塔
境内中央に建っていた。



イメージ 5 徳安風生翁句碑
供養碑の近くに置かれていた。
徳安風生は東大卒後逓信省に入り、同省次官に栄進した一方俳人としてもその才能を発揮し、ホトトギス派の重鎮として活躍した。
日本芸術院会員、勲一等瑞宝章叙勲 昭和54年(1979)没
昭和24年(1979)頃当寺を訪れ、今川義元の木造に供えた「額の花」を読んだ句
木像に そなへて暗き 額の花

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事