ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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勧修寺の境内に入り、宸殿、書院、書院前庭園を巡った後、本堂、観音堂を拝観し、次いで、広い氷室の

池を中心とした庭園を鑑賞した。

訪れている人は少ない。

季節になれば、桜、紅葉、の他、睡蓮や花菖蒲が美しく咲き乱れるというが、今の氷室の池の水面には睡

蓮の枯れた茎が目立つ、侘しい光景だ。

周囲の木々や中之島には夕方になれば琵琶湖から帰ってくる水鳥のお宿となり騒がしいと聞いたが、池の

水面に鴨らしき数羽の水鳥が泳いでいたが、近づいたら飛んでいってしまって静かなものだ。

ところで、この寺は醍醐天皇が生母・胤子(インシ)の実家である宮道(ミヤジ)邸を寺に改めたものである。

今昔物語に、醍醐天皇の祖父母・藤原高藤と宮道列子(タマコ)の出会いが記されている。

藤原冬嗣の子・内舎人良門(ウドネリヨシカド)の次男・高藤(藤原高藤は冬嗣の孫ということになる)が15、6歳の

頃鷹狩りに出かけ、雨宿りに立ち寄った(地方の豪族・宮道弥益(イヤマス)の)家の少女(列子:タマコ)と一夜の契

りを結んだ。

高藤は、その後も長く少女の面影を忘れかねた。

6年後、当時の事情を知る馬飼いの男を案内に、かの家を訪れ、一女(胤子)をもうけて美しく成人した彼

女(列子)に再会し、正室に迎えた。

娘(胤子)は宇多天皇の女御となり、やがて醍醐天皇の生母となり末永く繁昌を遂げた。
                           (「今昔物語」 第22 高藤内大臣語七)

梅原猛は、紫式部は、この列子の話を参考に、源氏物語で「明石の君」を書いたという説があることや、

山科では「玉の輿に乗る」とは(「桂昌院お玉」ではなく)列子のこととして伝わると、その著「京都発

見」で紹介している。





イメージ 1 境内配置図



イメージ 2 本 堂
寛文2年(1662)造営の仮皇居内侍所仮殿を霊元天皇より賜り、
旧材を用いて寛文12年(1672)潅頂道場として建築。
内部には本尊千手観音像を祀るという。
しかし、内部は暗くてよく分らなかった。


イメージ 3 イメージ 4
                                観音堂
氷室の池の端に昭和6年(1931)再建。「大斐閣」と呼ばれている。



イメージ 5

                                庭 園


イメージ 6

                                庭 園
氷室の池を中心に作庭されていて、且つ、周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取り込んで庭の風景画造られ、広大な自然美を楽しむ池泉回遊式庭園。
池を「氷室の池」と呼ばれる訳は、平安時代、毎年1月2日にこの池にある氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀豊凶を占ったということから来ている。
氷室の池は京都でも屈指の古い池で、かっては南に更に広がっていたが、秀吉の伏見城築城の際、新道建築の為埋め立てられ、現在の大きさになったとか。

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