ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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JR山科駅から旧東海道を東に5分ほど歩くと、街道に面して山科地蔵堂が建つ徳林庵に来た。

山科地蔵は京の出入り口祀られている6地蔵の一つで、8月23,4日の地蔵盆の時はたいそうな賑わいを見せ

るらしいが、今は地蔵堂の前の休憩所で地元の御老人が休んでいる長閑な光景だった。

徳林庵は柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。山科地蔵堂は今は徳林庵の堂となっているが歴史

は徳林庵より古い。

山科地蔵は、冥府から甦った小野篁が、仁寿2年(852)木幡山の一本の桜から刻んだ六体の地蔵尊の一体

で、他の像と共に伏見六地蔵の地にあった。

保元2年(1157)都で疫病が流行し、後白河天皇が都の出入り口に六体の地蔵尊を祀ることを、平清盛に命

じた。

そこで、清盛は京洛の入口六ヵ所に六角堂を建て、一体ずつ分置し、西光法師に命じて供養させた。

山科地蔵はその一体で、以後東海道の守護仏として信仰を集めてきた。

また、毎年8月23,4日の六地蔵巡りが伝統行事となっている。

(六地蔵を巡り、お幡(ハタ)と呼ばれる6色のお札を集めて家の入口に吊るすと家内安全、厄病退散の護符

になるという。)

一方、平安初期、仁明天皇第四皇子人康(サネヤス)親王は琵琶の名人だったが、失明しこの地に移り住んだ。

天文19年(1550)人康親王の子孫で、南禅寺第260世雲英正恰(ショウイ)禅師が人康親王の供養の為、徳林庵を

開創した。

江戸時代には人康親王は盲人・座頭の祖神とされ、毎年2月16日親王を弔う為、検校位を持つ琵琶法師たち

により琵琶演奏が行われたという。

境内の隅には人康親王を偲ぶものとして供養塔があった。


イメージ 1

                             山科地蔵堂


イメージ 2 山科地蔵尊
尊顔が美しく見えるのは百年に一度化粧直しをされる為とか。


イメージ 3 人康親王・蝉丸供養塔
供養塔は室町時代の造り。
人康親王は琵琶法師の祖とされる。
蝉丸は平安時代の人、
宇多天皇の皇子敦実親王の雑色とも(今昔物語)、
醍醐天皇の第四皇子ともいい(平家物語)、
盲目で和歌・琵琶をよくし、逢坂山に住し、
博雅三位に秘曲を授けたという。
和歌は百人一首にも採用されている。

これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関
                                                      蝉 丸
「今昔物語」では敦実親王の元雑色で乞食に近い身の蝉丸だが、「今昔物語」が出来てから約100年後

出来たと考えられる「平家物語」では、人康(サネヤス)親王と重複したのか、延喜(醍醐天皇)の第4皇子に昇

格している。

四の宮河原になりぬれば、ここは昔延喜第四の皇子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶を弾き

給ひしに、博雅の三位といひし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ日も,三年が間

あゆみをはこびたち聞きて、彼三曲を伝えけむ、藁屋の床のいにしへも、思ひやられ哀れなり。                                                    (「平家物語」巻第10 海道下り)
そして、世阿弥作「蝉丸」に引き継がれている。

イメージ 4 わらべ地蔵
地蔵堂の裏に安置されている六体のお地蔵さん。
一番右のお地蔵さんは琵琶を持っているが前掛けで分らない。

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