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亀山天皇(在位1259〜1274)は山水明媚な当地を愛され、文永元年(1264)離宮「禅林寺殿」を営んだ。 亀山天皇は建治3年(1274)退位して上皇になり、正応2年(1289)落飾して法皇になった。 2年後の正応4年(1291)法皇は禅林寺殿を寺に改め、東福寺の住持・大明国師無関普門を開山とし、「龍安 山禅林禅寺」とした。 しかし、大明国師無関普門はまもなく入寂し、諸堂・伽藍が完成したのは2世規庵祖円南院国師の時であっ た。したがって、2世規庵祖円南院国師を創建開山と仰いでいる。 だが、明徳4年(1393)、文安4年(1447)、応仁元年(1469)の3回火災に遭い、今は一宇も現存しない。 現在のものは桃山時代以降の再建である。 境内を巡っていると、法堂の奥に方丈(国宝)及び庭園があった。 大方丈は、天正年間(1573〜1592)豊臣秀吉が建造寄進した御所の清涼殿を慶長10年(1611)後陽成天皇より 拝領移築したものだ。 方丈に接続した後方の建物小方丈は桃山城の小書院を移したもので、狩野探幽の傑作と言われる襖絵「水 呑の虎」が有名である。 庭園は、慶長年間(1596〜1615)小掘遠州の作庭によるものといわれる方丈前庭の他、方丈周囲に作庭さ れた如心庭、六道庭、鳴滝庭、中庭、還源庭などがあり、夫々特徴があり優雅枯淡で品格ある庭であった。
方 丈
前庭に面した杮葺きの建物、国宝 襖絵は狩野元信、永徳の筆による。方丈前庭 禅院式枯山水の庭園(名勝指定庭園)。樹木と石組を一ヵ所にまとめた、広い余白が楽しめる。 巨石の姿から「虎の児渡し」と呼ばれ、小掘遠州の作庭によるものといわれる。 茶席「不識庵」は昭和29年(1954)開基亀山法皇の650御遠諱を記念して茶道宗道宗徧(ソウヘン)流8世宗有宗匠から寄進されたもの。 「不識」とは昔、達磨大師が梁の武帝と対面した時、「私の前に居るのは誰か」と問われて、「不識(しらず)」と答えた故事による。 昭和43年(1968)茶道宗道宗徧一門によって寄進されたもの。 修学院離宮の「上の茶屋」にある後水尾天皇命名の茶庭「窮邃軒(キュウスイケン)」の趣を慕って命名された。 路地を囲んでいる竹垣は創作されて「南禅寺垣」と名付けられている。 |
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