ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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小督局に係わる旧跡(小督塚、琴聴橋)を訪ねた後、滝口寺、祇王寺を訪れることにする。

滝口寺も祇王寺も奥嵯峨にあり、ここからは亀山公園(嵐山公園亀山地区)の散策路を通って南から北に横

断し、常寂光寺二尊院前の道を北に向かって1km余歩く。この先に滝口寺、祇王寺がある。

この間は緑が豊富で木漏れ日道で暑さは感じられない。

風情ある建物が散見し、この辺りの景観を保っている。

これを愛でる観光客が多く散策していた。

亀山公園の散策路には「道昌遺業大堰跡」の碑、角倉了以翁像、村岡局銅像があり、やがて小柴垣の道と

続いた。



イメージ 1 法輪寺道昌遺業大堰跡の碑
大堰川沿いを歩いていると亀山公園(嵐山公園亀山地区)の入口に建っていた。
道昌は平安時代前期の僧。
俗姓は秦氏だが讃岐で生れた。
奈良の寺々で仏教を学んだ後、空海の弟子となった。
天長6年(829)向かいの葛井寺(カドノイテラ)に虚空蔵菩薩像を安置し、貞観16年(874)法輪寺に改称した。
承和年間(834〜848)、大堰川の堤を修築し、参詣人のために初めて橋を架けたと言われている。


イメージ 2 河畔の茶店
大堰川河畔に建っている茶店
ここの前より右手に折れ、登り坂のの散策路に入る



イメージ 3 角倉了以翁像
角倉了以は、徳川家康より朱印貿易の朱印を受け、慶長8年(1603)最初の貿易船を出した。
安南貿易で蓄財をなし、河川の開削工事を手掛けた。
京都では高瀬川(慶長16年:1611)、や大堰川(慶長11年:1606)の開削工事を行うとともに、現在位置に渡月橋を架けた。
慶長19年(1614)60歳で没した。
像は第二次大戦で金属供出され、現在の像は昭和62年(1987)再建されたもの。



イメージ 4 津崎村岡局銅像
村岡局は本姓津崎矩子(ノリコ)天明6年(1786)生まれ。
父は大覚寺門跡の家来の津崎左京
近衛忠熙(タダヒロ)に仕え、村岡局と名乗った。
嘉永6年(1853)ぺりー来航とともに幕末の政局は、にわかに慌しくなり、近衛は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。
局は僧月照(ゲッショウ 清水寺成就院)や水戸の鵜飼吉左衛門らと親交を持ち、志士らの連絡等で活躍した。
西郷隆盛は「陽明(近衛)家の清少納言」と激賞している。
このため。安政5年(1858)の安政の大獄では捕らえられ、江戸に送られ幽閉された。
村岡局は、かって島津斉彬の養女篤姫が13代将軍家定の室として江戸に下った時、その養母として江戸に赴いている。
その時、将軍から拝領した三つ葉葵の紋を散らした内掛けを着て評定所に白洲に座ったので、奉行を困惑させたという逸話が残っている。
その後赦されて京に戻り近衛家を辞し、北嵯峨の直指庵(ジキシアン)に隠居した。
 明治6年(1873)88歳で没し、自筆の墓標が刻む墓が直指庵にある。
像は昭和3年(1928)建立



イメージ 5 小柴垣の路
小柴垣が続くやや下り坂路となる。
この後竹林が続き、嵯峨野の名所の一つとなっている



イメージ 6 竹林
竹林は観光のために造られているのではない。
竹細工製品の材料となる。
竹林の路が終わると小倉池が広がる。
小倉池の池畔には美容師らの信仰が篤い御髪神社が建つ。


イメージ 7 柴垣の門
小柴垣の途中に、こんな風情のある門があった。
下衆の根性だろうか、
維持が大変だろうと思ってしまった。

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