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小倉山の山麓にひっそりと佇む寺・滝口寺は滝口入道と横笛の悲恋の寺である。 その思いが強いので、寺の境内の入口近くに、鎌倉末期から南北朝時代初に活躍した武将新田義貞の首塚 と義貞の妻匂当内侍(コウトウナイシ)の供養塔があるのに一瞬驚いた。 三条河原で晒し首になった義貞の首を、妻の匂当内侍が奪い、ここで菩提を弔ったと伝えられるものだ。 なかなか立派だ。 本来は密かにあった首塚が、明治以降の新田義貞再評価で立派に整備されたものだろう。 新田義貞は、正慶2年(1333)鎌倉に入って北条氏を亡ぼし、建武3年(延元元年、1336)後醍醐天皇に反旗を 翻した足利尊氏を九州に走らせたが、東上した尊氏を兵庫に防いで敗れる。 延元2年(1337)恒良親王、尊良親王を奉じて越前金崎城に拠るが陥落。 再挙を図ったが、延元3年(暦応元年、1338)越前国藤島の燈明寺畷(福井市新田塚)で斯波高経の 軍と遭遇し戦死し、首級は京都に送られた。 匂当内侍は後醍醐天皇に仕えた一条経尹(あるいは、行尹)の娘で、彼女を見初めた義貞が、天皇の許し を得て妻とした。 匂当内侍は義貞の戦死を聞いて、琵琶湖に入水したとか、堅田で義貞の菩提を弔ったなどの伝説もあり、 墓所と伝えられるものが複数存在するそうだ。 因みに「太平記」では、義貞の晒し首をみて、その夜剃髪して尼になり、往生院で過ごしたと言う。 新田義貞の首塚 陽明の傍りへ行給ひける路に、人あまた立あひて、あな哀れなんど云音するを、何事にかと立留て見給へば、越路はるかに尋行て、あはで帰し新田左中将義貞の首を、獄門の木に懸られて、眼塞り色変ぜり。 内侍の局是を二目とも見給はずして、傍なる築地の陰に泣き倒し給ひけり。 知るも知らぬも是を見て、共に涙を流さぬはなかりけり。 日すでに暮けれども、立帰るべき心地もなければ、蓬が本の露の下に泣きしほれてをはしけるを、 其の辺なる道場の聖「余りに御いたはしく見させ給ひ候に。」とて、内へいざなひ入奉れば、其の夜やがて翠の髪を剃り下し、紅顔を墨染にやつし給ふ。 暫しが程は亡き面影を身にそへて、泣悲み給ひしが、会者定離の理に、愛別離苦の夢を覚して厭離穢土の心に日々にすゝみ、欣求浄土の念時々に増りければ、嵯峨の奥に往生院のあなりなる柴の扉に、明暮行ひすましてぞをはしける。(「太平記」巻第二十 義貞ノ首獄門ニ懸事付匂当内侍ノ事) |
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2011年09月18日
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