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貞観18年(876)恒寂法親王が開山となり、大覚寺の歴史が始まったが、その後は衰退した。 しかし、再び歴史に登場するのは文永5年(1268)後嵯峨上皇が入寺したこと。 その後、亀山、後宇多上皇と三代上皇が続いて入寺した。 とくに、徳治2年(1307)入寺した後宇多上皇は、伽藍整備を鋭意行い中興の祖とされるとともに、 境内の蓮華峰寺を仙洞御所として院政を行ったので「嵯峨御所」の呼び名が生まれ定着した。 また、ここから大覚寺統(後の南朝)を形成し、以後持明院統(後の北朝)と皇位を争った。 明徳3年(元中7年 1392)当寺で南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を譲り渡し、南北両朝の合 一が実現し、その後の後亀山天皇は大覚寺で過ごした。 明治維新の後、一時無住になった時期もあったが、皇室からの援助などがあって、昔の勢威を取り戻し た。 境内には、宸殿、御影堂、御霊殿、五大堂、正寝殿、霊明殿などの堂宇が並び、旧御所の絢爛さを 今に伝えている。 堂宇を結ぶ回廊は稲妻の様に折れ曲がり 「村雨」と云う名がついている。
御影堂(心経前殿)
大正14年(1925)御所の大正天皇即位式の饗応殿下賜され移築された建物。正面厨子には左から恒寂法親王(初代門跡)、後宇多法皇(23代門跡、中興の祖)、嵯峨天皇、 弘法大師(文殊菩薩の智剣を持った秘鍵大師)の像を安置されている。中に入って参拝が出来る。
御霊殿(左)と五大堂(右)
寝殿より望む。左手に後影堂があり、中央に輿が置かれた舞楽台、右手には唐門が位置する。御霊殿(安井堂):京都東山にあった安井門跡蓮華光寺の御影堂 明治4年(1890)に移築した江戸中期の様式の建物 五大堂:江戸時代の天明年間(1781〜89)にされた。大覚寺本堂 大正14年(1925)現御影堂を移築するため現在地に移築された。 現在祀られている本尊(五大明王)は、大覚寺創建1200年を記念して、昭和50年(1975)松久朋琳と 松久宗琳により新たに造像したもの。 近畿36不動尊第13番霊場
宝輦(ホウレン 天皇の乗り物)型の厨子の中に後水尾天皇の等身大僧形を安置している。 正宸殿襖絵(左)と障子の腰板絵(右) (模写) 正寝殿(重文)は12の部屋があり、上段の間は、13世紀後半の鎌倉時代、後宇多法皇が上皇として院政を執った御座所で、法皇が冠を傍らに置いたことから「御冠の間」と呼ばれている。 また、ここは明徳3年(1392)長年の南北両朝の争いを終息させるため、南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇により講和が成立したところ。 正寝殿は、幾度も改築されているが現在のものは桃山時代様式の書院造りの建物。 御座所の障壁画は狩野山楽の「四季花鳥図」、明かり障子の腰板は江戸中期、元禄時代(1688〜1704)の 渡辺始興の「野兎の図」 昭和11年(1936)2・26事件で凶弾に倒れた総理大臣斉藤実は昭和3年(1928)東京沼袋に日仏寺建立した。 その後戦争の為昭和17年(1942)頃百草園に移転。 その本堂である「霊明殿」を昭和33年(1958)寄進され移築。 正面に本尊阿弥陀如来像を安置。 大正14年(1925)建立 法隆寺の夢殿を模した八角形、高床式コンクリート造り。 弘仁9年(818)飢饉が起こり疫病が流行ったので、嵯峨天皇は弘法大師の進めにより一字三礼をもって般若心経を写経し、祈願したところ、悪病が退散した。 その時の嵯峨天皇の写経をはじめ、後光厳、後花園、正親町、光格天皇の写本が納められ、薬師如来立像が奉伺されている。 |
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2011年09月23日
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