|
北御堂から更に御堂筋を南に下る。 東西に走る阪神高速道路(高架下は船場センタービル)を過ぎるとすぐに南御堂が建っていた。 南御堂は真宗大谷派(東本願寺)難波別院だ。 文禄2年(1593)本願寺第12代教如上人は本願寺留守職を弟准如上人に譲り隠居したが、 文禄5年(1596)渡辺の地(現在 東区道修町1丁目)に大谷本願寺を建立した。 大谷本願寺はその後慶長3年(1598)現在の難波別院の地に移った。 東本願寺が慶長7年(1602)徳川家康の寄進により建立されるまで、難波別院は真宗大谷派の本山であっ た。 旧堂宇は昭和20年(1945)戦火により焼失したが、昭和36年(1971)に再建された。 御堂筋に面して山門とを兼ねた御堂会館が建ち、そこをくぐると正面に本堂が建っていた。 本堂に入ると、平成25年の親鸞聖人750回遠忌法要に向けて内陣の修理工事中で、参拝者の為に焼香参拝 所が設けられていた。 ご本尊は仮本堂に安置されており、そこもいつでも誰でも参拝できるようだ。 昭和36年(1971)山門と兼ねて建設 御堂筋に面して建つ。 昭和36年(1971)再建
焼香参拝所
内陣修理工事により、本堂入口に設けられている。本堂内陣修理工事に伴い、仮本堂に安置 石材と築山を使った庭園が南側に作られていた。 園内を巡っていると、大谷本願寺梵鐘や出土した石仏及び後稿で記すが芭蕉句碑などがあった。 庭園の隅に安置してあった。 文禄5年(1596)に鋳造されたもので、東本願寺草創を伝えるものである。 「大谷本願寺文禄五年丙申暦 第四日 大工我孫子杉本藤原朝臣佛善左衛尉家次」の銘が残されているそうだが良く分らなかった。 平成8年(1996)地下鉄工事中、長掘通りと御堂筋の交差点内の地中から出土したもの。 大阪は「水の都」、「八百八橋」とも言われ、市内には縦横に多くの堀と橋が架かっていたが、その多くは昭和35年(1960)以降に姿を消した。 その一つが御堂筋から長掘川(現名堀通)に架かっていた「新橋」で、この石仏は埋没していた橋脚附近(地下5.5m)から出土した。 恐らくかって橋のたもとにあって、道行く人が手を合わせた路傍の石仏が川底に落下したものと推測されている。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年01月28日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



