ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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その日(元禄7年10月12日)は小春の空の立帰りて、あたたかなれば、障子に蝿のあつまりゐけるを

憎みて鳥もちを竹にぬりて、かりありくに上手と下手とあるを見て、をかしがり申されしが、

その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されける。(各務支考「笈日記」)



南御堂の南側の庭園「獅子吼園」内に芭蕉の句碑があった。

天保の俳人たちが芭蕉150回忌記念に建てたものらしい。

そして、南御堂前の御堂筋に緑地帯に「芭蕉終焉の地」の碑が建てられていた。


松尾芭蕉は、元禄7年(1694)9月9日大阪へ出てきた。門人たちの諍いを仲裁するものだった。

しかし、体調を崩し、同年10月12日申の刻(午後4時頃)南御堂前の花屋仁右衛門方離座敷において51年の

生涯を閉じた。


(サテ)から(骸)は木曾塚に送るべし、爰(ココ)は東西のちまたさざ波きよき渚なれば

生前の契深かりし所也(路通「芭蕉翁行状記」)と芭蕉は遺言していた。



此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曾塚の舊草に入れ奉りて、

茶菓まうけ、います時にかはらず、埋葬は十四の夜なりけるが、門葉焼香の外に餘哀のも三百人も

侍るべし。(各務支考「笈日記」)

遺言により、門人たちの手で、亡骸はその夜に舟で伏見まで運ばれ、13日に近江の膳所(ゼゼ)にある

義仲寺に運ばれ、 14日の夜埋葬された。


イメージ 1 芭蕉句碑
南御堂の庭園内に設置されている。
天保14年(1843)芭蕉150回忌記念に当時の俳人たちによって建てられたもの。
旅に病で ゆめは枯野を かけまはる   ばせを」と
刻まれている。



イメージ 2 「芭蕉終焉の地」碑
南御堂前の御堂筋に緑地帯に建てられている。
正面に「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」
側面に「昭和九年三月建立 大阪府」と刻まれていた。
しかし、花屋仁右衛門方離座敷は僅かばかり南に位置していたらしい。

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