ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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・・・又、百済国におほせ賜はく、「若し 賢しき人有らばたてまつれ」とおほせまひき、

故 命を受けてたてまつれる人の名は和邇吉師(ワニキシ)。

即ち 論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を是の人に付けて、即ちたてまつりき。
                                           (「古事記」応神天皇)
(また、応神天皇は百済国にお命じになって「もし百済に賢人がいるならば献上せよ」と仰せになった。
そこで、勅命を受けて献上した人の名は和邇吉師(日本書紀では王仁)という。その時に「論語」十巻、「千字文」一巻合わせて十一巻をこの人に託して献上した。)


JR学園都市線(片町線)藤坂駅で下車した。

近くにある王仁(ワニ)公園に行き、広い公園内を歩き回って「墓」を探し回った。

Nさんに、応神天皇の時百済から論語十巻、千字文一巻を持って渡来し、日本文化の始祖といわれる「王

仁(ワニ)の墓」があると教えられたからだ。

当然目に付いた王仁公園内にあると思って、そこで王仁の墓を探し回った訳だが、どうしても分らない。

公園で散策している人を捉まえて尋ねても、分らないという人が多い。

数人目にやっと教えてもらえた。

公園から東北に数百メートル離れた住宅街にあった。

墓域は予想より大きなもので、入口には色鮮やかな百済門が建ち、その奥に玉垣に囲まれた中に王仁の墓

が建っていた。

境内の北側には朱色の柱の休憩所、百済門前には、千字文、論語のモニュメントが置かれてあった。

王仁の子孫は西文氏(カワチノアヤウジ)として羽曳野市古市付近に居住し、周辺は河内随一の渡来文化の集積地

として発展したという。

享保16年(1731)京都の儒学者並河誠所が、文献により原墓所の自然石を王仁の墓と考証、領主の久貝因幡

守に進言し、自然石の後に墓碑を建立したものだ。


イメージ 1

                             伝王仁墓入口
入口には百済門、北側に休憩所が建っている。


イメージ 2百済門額
百済門に要した全ての資材瓦石などは、かって百済のあった全羅南道から運ばれた。
日韓文化親善協会・韓日文化親善協会からの寄贈


イメージ 3 イメージ 4
                               王仁墓
供花の後に径50cmほどの自然石がありその後に「博士 王仁之墓」と刻まれた墓石が立つ。
周囲の玉垣は昭和15年(1940)有志により造られたもの。



イメージ 5 イメージ 6
                         千字文、論語、のモニュメント
千字文のモニュメントは平成5年(1993)、論語のモニュメントは平成6年(1994)に置かれた。

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