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「仁王門前右の方にあり。麓に大いなる池あり。 この山上に鐘楼ありて昼夜二六の時をつぐる。 明六つをもて仁王門をひらき、晩六つをもて是を閉づる。 この鐘をもて当山開閉の規とせり。」 (歌川広重「絵本江戸土産」) 宝蔵門(旧仁王門)の右手(浅草寺境内の東)の外れに、弁天山と呼ばれる小丘があった。 そこの頂上に弁天堂が建ち、側に鐘楼が建っていた。 冒頭の「絵本江戸土産」に記されているような池はない。 明治初年頃まではあったらしい。 参拝者が多く行き交う参道から外れているのと、雨の所為もあって訪れる人が全くない。 一人ゆっくりと散策し、参拝した。 ここの弁財天は裁縫にご利益あるとのことだが・・・・・。 東京の人にも、江戸の人にも、弁天山の弁天堂も、鐘楼も馴染みのものだった。 しかし、今回の戦災で焼失し、現在の弁天堂や鐘楼は戦後再建されたものだ。 そして、鐘だけは戦火から残り、昔からの鐘が吊られている。 ところで、芭蕉が貞享4年(1687)詠んだとされる「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の句は、深川沿いの 草庵から、ここで撞かれた「時の鐘」の音を聞いたものだといわれている。 しかし、現在の鐘は元禄5年(1692)改鋳されたものであるので、芭蕉が耳にしたのはここからの鐘の音だ としても、少なくとも現在の鐘ではないようだ。 弁天山の弁天堂と鐘楼 弁天堂も鐘楼も昭和20年3月の空襲で焼失したが、弁天堂は昭和58年(1983)、鐘楼は昭和25年(1950)に再建された。 鐘は、元禄5年(1692)5代将軍徳川家綱の命により深川住の太田近江掾藤原正光が改鋳し、その費用を下総関宿藩主牧野備前守成貞が黄金200両を寄進した。 歌川広重「絵本江戸土産」に記しているように、 江戸時代「時の鐘」の役目をした。 現在は毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。 本尊は白髪の弁財天で「老女弁財天」と呼ばれる。 別名銭瓶弁財天といわれるそうだ。 関東3弁天(他の2つは神奈川県江ノ島、千葉県柏市布施)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。 弁財天の縁日は「巳の日」で、堂内にてお参りができる。 大永二年(1522)九月のはじめ、北条氏綱よりの使として富永三郎左衛門、古河の御所へ参りける帰るさ、当寺の観音へ参詣せしに、折ふし十八日なれば、常よりも殊に参詣の人群集す。 このとき弁天堂辺より、銭湧き出づる事ありて、参詣人この銭をとる。 寺僧制しけれどもきかず。(「江戸名所図会」) |
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2012年03月24日
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