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「二露佛有り、佛ニ隣ル石像ヲ 久米平内ト曰フ」(寺門静軒「江戸繁昌記」) 特に江戸時代以降庶民の信仰が衰えることがなかった浅草寺、その境内には様々な小堂や石造物がある。 境内東側、即ち参道の(本堂に向かって)右側の弁天山麓辺りを巡ってみた。 江戸時代から建つ二尊佛(濡れ仏の名で世に知られる)や阿弥陀如来像、江戸時代から建ち戦後再建された 久米平内堂、それに戦後新たに造立された平和地蔵尊があった。 ただ、江戸時代からの由緒を持つ像や堂の位置が、戦後の境内整備によるものだろうか、必ずしも昔の位 置にあるとは限らない、との印象を受けた。 二尊佛(濡れ仏): 勢至菩薩(左)、観音菩薩(右) 像高約2.4m 蓮台を含めれば約4.5m 金銅坐像で「濡れ仏」の名で世に知られる。 基壇の組石は長さ約12m、幅6.2m、高さ1.5mとなっている。 蓮弁台座の銘によれば、上野国館林在大久保村の高瀬善兵衛が願主。 かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像(右)が旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像(左)はその子次郎助の繁栄を祈る為貞享4年(1687)造立した。 安永6年(1777)高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり修理したことが観音像銘に追刻されている。 「付文の そば弁天と 濡仏」 (「誹風柳多留」135篇) 付文とは久米平内像を指す。 「不動さん あたりに来たと 濡仏」(「誹風柳多留」124篇) 不動とは火炎の中に坐す三社様の傍 らにあった荒沢不動 説明板のよれば、 江戸時代前期承応3年(1654)造立 文化10年(1813)編纂の「浅草寺志」にも載っている。 久米平内堂の左隣 戦災供養のため 久米平内は江戸時代前期の武士。 喜多村信節の「武江年表」によると天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり実像は不明。 平内堂について次の伝承がある。 平内は剣術に秀でており、多くの人を殺めてきた。 後年、その供養の為に仁王坐禅の法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ち込んだという。 臨終にのぞみ、自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことにより、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。 その後、石像はお堂に納められたという。 「線香や 平内堂の 春の雨」(小林一茶「一茶俳句集」) 「初雪や 平内堂の 小豆飯」( 同 上 ) 平内堂は昭和20年空襲で焼失した。現在のお堂は昭和53年(1978)再建されたもの。 また、「踏付け」が文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代以降、特に縁結びの神として庶民の信仰を集めた。 「風俗画報(新撰東京名所)」には次の様に様子を述べている。 「お文といひて、心に思ふことを細かに認め、一通の書状として堅く封じ、上書に平内様誰よりと しるし、像の前に納め、お返事と称して、兼ねて納めたる願望成就の能く知るところなり」 |
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2012年03月25日
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