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石清水八幡宮は、貞観2年(860)4月3日男山山頂の社殿に遷座した。 しかし、その以前から男山には、霊泉を祀る社や、そのほとりに薬師如来を本尊とする「石清水寺(後の 護国寺)」という寺があった。 一説では、石清水八幡宮の社号はこの名による、といわれている。 八幡宮は早くから神仏混淆が進み、遷座後から明治維新まで八幡宮とも呼ばれ、護国寺が神宮寺として統 括する、寺院と一体の神社であった。 しかし、明治の神仏分離、廃仏毀釈により、「男山48坊」といわれた多くの僧坊は全て廃絶・撤去される などして、仏教色は薄められ、今日見られる姿になった。 だから、男山の様相は、今日と江戸時代以前では全く異なっているだろう。 男山山頂上院から麓の下院にむかって下りながら、山中を見ていると、撤去された僧坊の跡の石垣や、碑 が目に留まる。 また、表参道から分かれて祓谷道を上っていたら、八幡大神鎮座以前から男山の霊泉を祀る社「石清水 社」があった。 山の様子は時の流れによって変わってきたが、その霊泉は今なおこんこんと湧き出ていた。 緩やかな坂道である。 脇の石垣は僧坊の跡である。 表参道を下り始めると直にあった。 豊蔵坊は徳川将軍家の祈祷所として特別な待遇が与えられていた。 仏堂には徳川家康42歳像も祀られていた。 明治の神仏分離令により廃絶したが、家康像は京都の等持院霊光殿に移された。 江戸時代初期の文化人・松花堂昭乗(1582〜1639)が泉坊内に建てた庵・松花堂の跡 明治の廃仏毀釈で撤去されたが、八幡市松花庭園に一画に移築されている。 因みに、松花堂弁当は、松花堂昭乗の十文字に仕切った絵具箱をヒントに、料亭「吉兆」の創始者湯木貞一が昭和の初めに考案したもの。 祓谷道と裏参道との合流点にあった。 護国寺は石清水八幡宮の神宮寺で前身は石清水寺 摂社「石清水社」 祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 鳥居の正面に、八幡神鎮座から祀られている霊泉があり、今も岩間から水が湧き出している。 社前の石の鳥居は寛永12年(1636)京都所司代板倉重宗が寄進したもの 表参道と祓谷道との合流点 小さな石橋を渡り、祓谷道を上っていくと、泉坊(松花堂)跡や石清水社、護国寺薬師堂跡、があった。 |
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