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離宮八幡宮は、貞観元年(859)以来の歴史を持つ古社である。 また、鎮座する場所が、桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大淀川になる地峡で山崎津として水陸交 通の要として栄えたところである。 離宮八幡宮の、それほど広くは無い境内を巡ると、境内社のほかに、油座を組織して油を独占的に商った ことを記念する碑や石像、その結果得た守護不入の権を示す神領境標石などがあった。 離宮八幡宮の前は西国街道である。 離宮八幡宮参拝の後、周辺をぶらついた。 街道沿いに今なお風格ある民家が点在するが、淀川岸に向かったところに建っていた民家も写真に収め た。 なお、司馬遼太郎は「国盗り物語」の前半で山崎の油座について生き生きと描写すると共に、次の様な 薀蓄を披瀝しているので紹介する。 山崎八幡宮(離宮八幡宮)の神官は、・・・・ 津田氏の世襲で、当主津田定房氏は46代目である。 ・・・・ こんにち往年の盛大さをしのぶよすがもないが、ただおもしろいことに、東京油問屋市場、吉原製 油、味の素、昭和産業といった全国の食用油の会社、組合がいまなお氏子になっている。 (司馬遼太郎「国盗り物語」運さだめ) 本邦製油発祥地碑(左)と油祖像(右) 清和天皇の頃に、離宮八幡宮の神人が「長木」という道具で荏胡麻を絞って油を採り、灯火に用いた。 これが始まりで、油を製造し、売り歩いた。 八幡宮の保護下、彼等は油座を結成し、関料、津(港)の使用料の免除、製造独占権を得た。 室町時代になると、宮廷はもとより全国の社寺や一般の人々が山崎産の荏胡麻油を使用し、全国にその名が知られた。 しかし、織田信長が登場し、彼が行う楽市楽座の政策により座の独占は崩壊し、さらに、江戸時代に入ると菜種油に油の座を譲った。 神領の四隅に設置された境の標石の一部 向かって右の標石: 正面「従是北 八幡宮音神領大山崎荘」 右横面「殺生禁断所」 左横面「守護不入所」 向かって左の標石: 正面「従是西 八幡宮御神領守護不入之所」 右横面「殺生禁断所」 左横面「大山崎総荘」 奥に左から稲荷社、高天宮神社、住吉社、 右横に、奥から気比宮、鹿島神社、蛭子神社、天照皇太神社、武内社が並ぶ。 境内社は他に境内に点在していた。 腰掛天神社 の隣りの注連縄が掛けられた石 菅原道真が九州に流された時、西国街道の脇にあったこの石に座って休息した。 なお、「大鏡」では、道真の山崎での様子を次の様に述べている。 なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家せしめたまひて、 都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、 君が住む 宿の梢を ゆくゆくと かくるるまでも かへり見しかな (「大鏡」天 左大臣時平) (罪なくして、この様に罰せられてたのをひどくお嘆けきになられて、そのまま山崎で出家なされた。 そして、しだいに都が遠ざかるにつれて、しみじみと心細くなられてお詠みになられた歌 「都遠く・・・ : あなた様がお住みになられている家の木立の梢を、道をたどりつつ、すっかり見えなくなるまでも、振り返り振り返り見たことでした」) 境内の隅に置かれていた。 行基建立の山崎院にあった五重塔の心礎と考えられ、 山崎院廃絶後、相応寺塔心礎に再利用されたらしい。 近在の民家 離宮八幡宮の前は西国街道であった。 今なお風格ある民家が点在するが、 淀川岸に向かったところに建っていた民家を写真に収めた。 |
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