ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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江戸時代初期の慶長19年(1614)徳川家康が、側近の天海に金峯山寺の支配を命じた。

吉野が権力に立ち向かう者を迎え入れてきた風土に、不安を感じたからであろう。

吉野は、古くは壬申の乱前夜大海人皇子(後の天武天皇)が身を寄せた。

また、兄頼朝に追われた源義経を匿った。

そして、北条幕府に対する倒幕の狼煙をあげた大塔宮護良親王を受け入れ、足利幕府・北朝に対する南朝

の拠点ともなった。

こうした目で、金峯山寺の本堂・蔵王堂の周囲を見渡すと、建武の中興前後の兵乱の旧跡である大塔宮御

陣所跡、村上義光忠死の処碑、後醍醐天皇導きの稲荷、南朝妙法殿などが点在していた。



イメージ 1

                            大塔宮御陣所跡
蔵王堂正面の石柵に囲まれ区域。桜の木が四本植えられている。
元弘3年(1333)後醍醐天皇第二皇子・大塔宮護良親王が北条幕府の大軍に攻められ吉野に立て籠った時、ここ蔵王堂を本陣とし、落城に際し、四本桜のある前庭で最後の酒宴を開いた所。
後世ここに桜を植え、大塔宮御陣地跡として記念されている。

この時の様子を「太平記」では次のように描いている。

・・・劣らぬ兵二十余人、前後にしたがへて、敵のたなびき引きたる中へ破って入り、東西を払ひ

南北を追ひまわし、黒煙を立てて切って廻らせ給ふに、寄せて大勢なりといへども

宮の怪力に辟易して、木の葉の風に散るが如く四方の谷へさっと引く

敵引けば、宮は蔵王堂の大庭になみ居させ給ひて、油幕を掲げさせ、閑かに最後の御酒盛ありける
                                                  (「太平記」巻第七 )
(大塔宮に劣らない兵20余人を前後左右に従えて、群がって待ち構えている敵の中に割って入り、東西へ払いのけ、南北に追いまわし、土煙をあげて斬りまくった。寄せては大勢だといっても、宮の怪力におそれたじろぎ、木の葉が風に舞い散るように四方の谷へさっと退いてしまった。
敵が退くと、宮は蔵王堂の庭に兵たちを並んで座らせ、油引きの幕を張らせて、心静かに最後の酒盛りをなさった。)



イメージ 2銅燈籠
大塔宮御陣所跡の石柵内に立つ青銅製の灯篭
文明3年(1471)妙久禅尼という尼さんが寄進したもの。
室町時代の秀作、重文



イメージ 3村上義光忠死之所跡・二天門跡
大塔宮御陣所跡の(南)先に「村上義光(ヨシテル)忠死之所」と刻まれた石碑が建っている。
昔、二天門が建っており、元弘3年(1333)吉野落城の際、前庭での酒宴も終り、いざ決戦という時、大塔宮の家臣・村上彦四郎義光が宮の鎧兜を身につけ、宮の身代わりとなって二天門に駆け上がり、腹を一文字に掻き切って壮烈な最期をとげた。
大塔宮はこの隙に勝手神社横の谷を抜け、無事に高野山へ落ち延びることが出来た。

「太平記」では義光の壮烈な最後を次のように記している。

・・・その後、村上義光は、今ははやばや宮はつつがなく落ちのびさせ給ひむと思しき程になって

高櫓に登り、小間の板皆切って落とし身を露はにし、大音揚げて名乗りけるは −中略ー  

と言ふまに、鎧の上帯を解いて櫓より下へなげ下ろし、錦の鎧直垂の袴ばかりに、練り貫きの

二小袖を推しはだぬぎ、白く清気なるはだに刀を突き立て、左の脇より右のそば腹まで

一文字にかき切って、はらわたつかんで櫓の板になげ付け、刀をくはへてうつ伏しになってぞ

臥したりける。(「太平記」巻第七)
(その後、村上義光は、もうすでに大塔宮は落ち延びされたと思われる頃合になったので、高櫓に登り、狭間の窓板をすべて切り落とし、敵に体を晒して、大音声で名乗りあげて云うには ー中略ー 
と言うや、鎧の上帯を解いて、櫓から下に投げ落し、錦仕立ての鎧直垂の袴一つになり、練絹の二重小袖を肌脱ぎにして、白く美しい肌に刀を突き立て、左の脇から右の横腹まで真一文字にかき切って、腸を掴んで櫓の板に投げつけ、刀を口にくわえてうつぶせになり、横たわった。)



イメージ 4導き稲荷
延元元年(1336)8月21日密かに京都花山院を脱出した後醍醐天皇は28日に吉野の行宮に着いた。
途中道に迷い、と伏見の稲荷社にさしかかった時に「むば玉の 暗きやみ路に 迷うなり 我に貸さなむ 三つのともし火」と詠むと、一叢の紅い雲が現われて、吉野への臨幸の道を照らし導き、金の御岳(金峯山)の上で消えうせた(「吉野拾遺物語」明神臨幸の道を照し給ふ事)という。
その稲荷を勧請した社。
心に迷いが生じた時、この神に祈ると、自ずから道が開けるという言い伝えがあるとのこと。

「太平記」では、後醍醐天皇の吉野潜幸について、次の様に記している。

・・・八月二十八の夜事なれば、道いとど暗くして、行くべき様もなかりけるところに、にはかに

春日山の上より金峯山の峰まで、光物飛び渡る勢ひ見えて、松明の如くなる光よもすがら

天を輝かし、地を照らしける間、道分明に見えて、程なく翌の明ぼのに、大和国賀名生(ガナウ)

というところへぞ落ち着かせ玉ひける。(「太平記」巻第十八)


イメージ 5南朝妙法殿
蔵王堂の西側先に建つ
昭和31年(1956)南朝の行宮とした金輪王寺(実城寺)跡に建立
後醍醐天皇以下南朝4代の天皇、殉じた忠臣たちの霊を祀っている。
高く突き出ているのは「八角三重塔」で釈迦如来坐像(平安時代 重文)を安置する。

後醍醐天皇は延元元年(1339)12月28日吉水宗信に迎えられて吉水院に身を寄せられた。
その後、最も広い実城院に行宮を移し、金輪王院と改めた。
延元4年(1339)京への帰還を果たせぬまま52歳で崩御された。

悲しきかな、北辰位高くして、百官星の如くつらなれども、九泉の旅路には供奉する臣独りもなし

奈何かせん、南山地険しくして、万卒雲の如く聚まると云へども無明の敵来れば

防ぎ留むる事さらになし。(「太平記」巻第二十一)
(悲しいことに、帝の位は北極星の様に尊く、多くの臣下が星の様に並んで居るが、黄泉路の旅にはお供する臣下は一人も居ない。どうすればよいというのだろうか、吉野は地険しく、多数の兵が雲の様に集るとはいえ、死という敵が来たら、防ぎ止めることは全く出来ない。)

徳川時代になると幕府は、金輪王寺の寺号を没収して日光に移し(日光 輪王寺)、元の実城寺となって明治を迎えたが、廃仏の嵐にあって廃寺となってしまった。

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