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関ちかくなりて、山づらにかりそめなるきりかけという物したる上より、丈六の仏のいまだ 荒作りにおはするが、顔ばかり見やられたり。 あはれに、人離れて、いづこともなくておはする 仏かなとうち見やりて過ぎぬ。(菅原孝標の女「更級日記」) JR大津駅から西へ10分くらい、距離にして300m位歩き、ほぼ南北に走る国道161号を渡ると関寺遺跡長安 寺に着いた。 長安寺は長等山麓に建ち、門や塀はなく、境内には建物といえば小堂というべき本堂だけで、あとは霊牛 塔と言われる石造宝塔や小町、一遍上人、超一房の供養塔が建ち、奥には西国33か所の石仏が山腹に点 在しているといったわびしい雰囲気の寺だった。 平安時代には逢坂の関近くのここに関寺という大寺院があった。 創建年代は不明だが、関寺の5丈の弥勒菩薩像(今は無い)は大和の東大寺の廬舎那仏、河内の大平寺(知 識寺、廃寺)の廬舎那仏とともに三大仏として知られたという。 鎌倉時代、時宗の宗祖一遍上人が遊行し、踊念仏を厳修したことが国宝「一遍聖絵」などから知られてい る。 慶長の兵火に遭った後、長安寺と改め時宗に属し現在至っているとのことだった。 国道側から入った右手に建つ。重文 高さ3.3m、角形の基礎石に巨大なつぼ型の塔身を置き、笠石を付けたもの。 鎌倉時代初期に造られた日本を代表する石像宝塔。 一般に「関寺の牛塔」と呼ばれる。 万寿2年(1025)菅原師長が著した「関寺縁起」によると、天延4年(貞元元年 976)の大地震で破損したの で復興する時、資材を運搬した1頭の牛が迦葉仏の化身であるという噂が立ち、多くの人々が関寺へ参拝 したという。噂は京にも伝わり、藤原道長・源倫子夫妻も訪れた。 万寿2年(1025)霊牛は関寺の工事が終わると共に死んだ。 道長の子・頼通が、その霊牛を供養して祀ったのがこの牛塔であるといわれている。 白洲正子は「近江山河抄」で「牛塔」について次のように述べている。 蝉丸神社の下社「関清水明神」から少し下がった所に、「牛塔(ウシトウ)」と呼ばれる大きな石塔が 建っている。 このあたりは昔、関寺(世喜寺とも書く)のあった所で、来歴がはっきりしないのは、関の神社に 付随する神宮寺であったのだろう。 草創の時、天竺の雪山(ヒマラヤ)から、牛乳を将来し、金鶏の香合に入れて納めたので、牛塔と 名づけ、そこを鶏坂とも呼んだという。 が、もともと牛とは縁のある塔で、恵心僧都が関寺を再興した時、迦葉仏が白牛に化身して手伝い、 工事の終了とともに死んだ、その牛を弔うために造ったともいわれている。 もとはと言えば、材木の運搬に使役した牛を、信心ぶかい人が、迦葉仏の化身だと夢に見て、 いいふらしたにすぎないが、藤原道長や頼通まで、拝みに来るという騒ぎであった。 ただそれだけの話とはいえ、こんな美しい塔が建ったことは、それこそ嘘から出たまことといえる であろう。 石塔寺の三重の塔にはまだ朝鮮の影響が見られたが、この宝塔は完全に和様化され、力強い中に 暖かみが感じられる。 淡海の国のもう一つの枕言葉を「石走る」というのも、石に恵まれていたことの形容かもしれない。 (白洲正子「近江山河抄」逢坂越) 因みに、この復興工事のころの寛仁4年(1020)12月2日上総介の任を終えた父と共に京へ帰ってきた菅原孝 標の娘が通っており、その著「更級日記」に冒頭の様な文章を記している。 本堂 堂正面の賽銭箱の上には牛の像が置かれていた。 本堂の向かって右手に造られていた塚 ここの地蔵は、元亀2年(1571)比叡山焼き討ちの戦乱などにより比叡山麓(大津市坂本)に埋もれていたものを、昭和35年(1960)百体移したもの 小野小町は晩年をこの辺りに隠棲したとの説がある。 それをもとに、謡曲「関寺小町」がつくられた。 謡曲「関町小町」は老衰した小町がなお優秀な歌人として風雅で上品な気質であることを素直に描いた老女ものである。 ある年の7月7日 近江国関寺の住職が稚児をつれて山陰に住む老女の許へ歌物語を聞きに行った。 老女は僧に請われるままに歌物語を始めた。 その言葉の端から彼女が小野小町であることが分かった。 小町は、わが詠歌を引いて昔の栄華を偲び、今の落魄を嘆いた。 寺の七夕祭りに案内された小町は、稚児の舞に引かれて我を忘れて舞った。 (謡曲史跡保存会による説明板より) 「一遍聖絵」によれば、弘安6年(1283)一遍上人は関寺に逗留し「踊念仏」を厳修した 超一房は一遍の妻と言われる。 一遍上人供養塔の隣に建っていた。 「時宗過去帳」によれば、一遍上人と共に関寺逗留中に没した |
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2012年12月29日
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