|
六波羅蜜寺を西に100m余歩くと大和大路通りに出、そこより南にぶらりぶらり歩いく。 500mほど歩いた時、左手、即ち東側に巨石を並べた石垣が続いていた。 これが、豊臣秀吉が造った大仏殿石垣で、現在は方広寺、その南隣の豊国神社の西側の石垣として 続いていた。 方広寺は天正14年(1586)豊臣秀吉が木食応其(モクジキオウゴ)を開基として創建した寺だ。 方広寺といえば、徳川家康が梵鐘の銘文で言いがかりをつけ、大阪の豊臣家を滅ばしたことで有名だが、 豊臣秀吉は、当時方広寺の境内だった豊国神社や京都国立博物館辺りに、大仏、大仏殿を造ったことでも 知られる。 豊臣秀吉は奈良東大寺に倣って大仏殿を造営し、文禄4年(1595)完成した。 しかし、慶長元年(1596)伏見大地震で倒壊した。 その後豊臣秀頼により再建されたが、寛文2年(1662)地震で倒れ、大仏は寛永通宝に改鋳された。 その後、木造の大仏が安置されたが寛政10年(1798)落雷により焼失したといわれている。 蓮華王院(三十三間堂)の南大門(重文)が大仏殿の南正面の門として建立されたものだ。 現在の方広寺は天台宗山門派の寺院として命脈を保っているが、寺域は、創建当時に比べれば、はるかに 縮小され、大黒堂、それに続く本堂、鐘楼が残っているのみであった。 巨石の石垣が方広寺西側から、南となりの豊国神社に続く 本 堂 本堂前に位置する。 問題の梵鐘を吊り下げ 天井は鮮やかな文様が残っていた。 梵鐘と問題箇所 梵鐘は三条釜座の鋳物師名越三昌らによって慶長17年(1612)制作された。重文 梵鐘の銘文の中の、白枠してある箇所「国家安康 君臣豊楽」が徳川家康を分断し、豊臣を主とし、 家康及び徳川家を冒涜するものと看做され、大阪の陣により豊臣家滅亡を招いたとされる。 鐘楼の下には大仏殿の遺物が展示したあった。 案内図 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年03月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


