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金峯山寺黒門を過ぎると、普通は、吉野山ロープウェイで下るか、又は、七曲坂を歩いて下って帰ること になる。 我々は、時間があるので、このまま尾根道の車道を進み、吉野神宮に向かうことにした。 緩やかな坂道が続いた。 観光コースから外れている所為か、歩いている人は殆ど見かけなかった。 途中、掘割に架かる大橋や村上義光(ヨシテル)の墓があり、大塔宮護良(モリナガ)親王が北条方と戦った往時の よすがを偲んだ。 その他、美しい吉野山の風景と共に、芭蕉句碑、峰の薬師堂跡があり、綺麗に並んだ杉並木があったり し、それらをうろうろ見ている内に吉野神宮に着いた。 尾根道を遮断するような形でつくった掘割に架かる橋 掘割は元弘3年(1333)大塔宮護良(モリナガ)親王が北条幕府に対し吉野城に立て籠もった時のもの。 現在は堀部分の空間を埋めた鉄筋コンクリート造となっている。 芭蕉の句碑と称するものが道脇に2つ立っていた。 一つは全く文字が分らず、他の方は達筆過ぎて何が書かれているのか分らなかった。 因みに、芭蕉は貞享元年(1683)と元禄元年(1688)の二度吉野を訪れている。 左側の道脇に建っていた。 標石に従って杉林の中に入るとすぐに村上義光(ヨシテル)の墓があった。 村上義光廟所 石柵に囲まれた中に義光の墓石である宝篋印塔と、柵の右外に忠烈碑が建っていた。 石柵正面の向かって左側にはミニチュアの鎧が奉納されていた。 村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦ったが、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時、大塔宮の身代わりになって蔵王堂二天門の高櫓の上で腹をかき切って果てた。 その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたものという。 太平記によれば、義光の首は京都へ持っていかれたので、ここには胴体が埋葬されたのであろうか? 忠烈碑は天明3年(1773)大和高取藩士内藤景文が義光の戦功を讃えて建てたもの。 なお、義光の子・義隆も、父と共に死のうとしたが、大塔宮を護って落ち延びるように諭され、高野山に向かう途中、追いかけてきた敵と戦い討ち死にし、義隆の墓が勝手神社の南西1kmの所にあるそうだ。 村上父子が敵を防ぎ、うち死しけるその間に、宮は危ふき死を遁れさせ給ひて、高野山へぞ 落ちさせ給ひける。 さる程に、二階堂出羽入道、村上が宮のまねをして腹を切ったりつるを実と心得て、その頸を 取って京都へ上せ、六波羅の実検に晒しければ、あるにもあらぬ頸なりと申しけれな、獄門に 懸くるまでもなくて九原の苔に埋もれけるこそ無慙(ムザン)なれ。(「太平記」巻第七) 義光の墓を過ぎ杉林が途切れた道脇に標石が立っていた。 明治初年まで瓦葺の大きなお寺があったが、廃仏毀釈で取り壊され、本尊の薬師如来は行方不明となり、 石造不動明王は如意輪寺の境内に移され、今も近畿36不動尊の第三十番難切不動尊として厚い信仰を受けているそうだ。 道路沿いに、幹が垂直に剪定された杉が綺麗に並んでいた。 |
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2012年05月16日
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