ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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竹生島に着くと、急峻な斜面に細い参道が巡らされ、桧皮葺の唐門と観音堂が目に入る。

前稿で述べた正面の石段を上り、「巌金山」の額が掲げられた鳥居辺りで右に折れると正面に唐門が見

え、その奥に観音堂、さらに渡廊下(舟廊下)、都久夫須麻(ツクブスマ)神社本殿(旧弁才天社)と続いている。


神亀元年(724)聖武天皇の勅命により行基は弁才天を祀った。

その後、更に堂宇を建立し、等身大の自刻の千手千眼観音菩薩を祀った。

やがて、全国的な観音信仰の隆盛により、西国三十三ヶ所観音霊場の一つに数えられるようになった。

宝厳寺(ホウゴンジ)は、長い時代の流れの中にあって盛衰があり、堂宇の数は往時に及ぶべきもない。

しかし、今でも戦時中完成した弁才天堂(本堂)に安置される弁才天と共に、豊臣秀頼移築したといわれる

観音堂の千手千眼観音菩薩を中心に篤い信仰をあつめている。


イメージ 1 港からの眺望
急峻な斜面に唐門・観音堂が建てられていることが分る。
写真には写っていないが、右手に渡廊下、都久夫須麻神社本殿(旧弁才天社)と続いている。




イメージ 2 イメージ 3
                              唐門・観音堂
観音堂は南(湖面)側に向いており、唐門はその西側に建ち西向きに建っている。
慶長8年(1608)豊臣秀頼が、秀吉の遺命により京都東山豊国廟(現豊国神社)より移築したといわれている。   唐門は国宝、観音堂は重文
唐門には豊国廟極楽門の移築説のほか伏見城遺構移築説もある。
頭でっかちに見えるのは奥に続く観音堂と繋げる為に脚の部分を切ったためと言われる。大胆!!
桧皮葺、扉や柱などは総漆塗り
観音堂の折上格天井の天井板には 牡丹、菊、桐が描かれ、欄間の彫刻や籠彫りの木鼻など随所に桃山時代の美の最高峰が見られる。


イメージ 4 観音堂側面
唐門の奥は観音堂の西壁に突き当たり、彫刻で埋め尽くされた壁前に賓頭盧尊者像が安置してあった。
賓頭盧尊者像は「撫で仏」であるが、何故か撫でるのが憚れる様な気がした。
賓頭盧尊者像に合掌して、観音堂の縁を伝って南、正面に向った。


イメージ 5

                             観音堂外陣
観音堂は桁行五間、梁行四間、その外回りに縁が巡っている。
正面一間通りが外陣、奥四間通りが内陣、内陣右奥に本尊(秘仏)が安置してあるという。
本尊は千手千眼観世音菩薩立像、十一面四十二臂等身仏

西国三十三ヶ所観音霊場 第三十番札所
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積む心地して




イメージ 6 イメージ 7
                             渡廊下(舟廊下)
観音堂と弁才天社(現 都久夫須麻神社本殿)を結ぶ幅約1.8m、長さ約30mの渡り廊下   重文
慶長8年(1603)豊臣秀頼が、秀吉の御座船「日本丸」の舟櫓を利用して建てたと言う伝承をもつので、別名「舟廊下」と呼ばれる。
両側に竪連子窓を配し、彫刻や天井板を廃したシンプルなデザインは、唐門、観音堂、都久夫須麻神社本殿とは少し趣を異にしている。 
急斜面に建つ為、床下は足代を組んだ舞台造(懸造)となっている。
この渡廊下の存在により、明治に分かれた「宝厳寺」と「都久夫須麻神社」が、今日でも不可分の関係にあることを示している。


イメージ 8 片桐且元手植えのモチノキ
樹齢約400年
片桐且元が観音堂の普請奉行として来島した時、記念として手植えしたと伝えられる。

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