ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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晴れたり曇ったりして天気が定まらない日、JR京都線「島本」駅を出た。

駅のすぐ左手に史蹟公園「桜井の驛跡(楠正成伝説地)」があった。

ここは、建武3年(延元元年 1336)九州から攻め上って来る足利尊氏勢を迎え撃つため、兵庫に赴く楠正

成(クスノキマサシゲ)が討死覚悟し、その後を託すために嫡子正行(マサツラ)と別れたと伝えられるところである。

正行の生年がはっきりしていないが、太平記では正行は11歳(異本では13歳)となっていて、涙をそそる。

また、正行に与えた庭訓の中に、この時の正成の心情をうかがうことができて興味深い。

しかし、この時正行は20歳ぐらいになっていた筈という説や、「桜井の別れ」は「太平記」以外に資料に

はなく、そもそも「桜井の別れ」はなかった、という説もある。

とはいえ、戦前は楠正成は神格化され、「桜井の別れ」の物語は、教科書に必ず載り、唱歌にされた。

そして「桜井の驛跡」は楠正成ゆかりの地として一大聖地になった。

このため、公園内には多くの石碑や所縁のものが今でも置かれていた。

ここが楠正成ゆかりの地として整備された発端は、明治9年(1876)英国公使ハリー・S・パークス等が西国街

道沿いに建立した「楠公父子訣児の処」碑であった。

明治末年に結成された楠公父子訣児之処修興会等によって敷地が拡張され、大正10年(1921)には国の史跡

に指定された。

昭和10年(1935)には「大楠公600年祭」が大々的に催されたという。

戦前は「桜井驛跡」周辺では記念品を売る店や食堂があり、記念絵葉書の販売もあったそうである。

今見渡したところ、駅右手に建つ「島本町歴史資料館」がかって賑わっていた頃建てられた「麗元館」と

いう以外賑わいを彷彿させるものはなかった。


イメージ 1「史蹟桜井驛跡(楠正成伝説地)」標柱
JR島本駅通りに面して建つ
側面に
「史蹟 名勝天然記念物保存法により
大正10年3月 内務大臣指定」
と刻んであった




イメージ 2

                            「楠公父子訣児の処」碑
明治9年(1876)11月建立 正成を顕彰した碑
表題字は大阪府権知事渡辺昇の書
裏面に英国公使ハリー・S・パークスの英文が刻まれている。
「西暦1336年湊川の戦いに赴くに際し、この地で子・正行と別れた。忠臣・楠正成の忠義を外国人として讃えるものである。ハリー・S・パークス」



イメージ 3

                             楠公父子別れの石像
平成16年(2004)造立 台座の「滅私奉公」の題字は近衛文麿の書
元は、昭和15年(1940)新京阪電鉄(現阪急電鉄)「桜井の驛」前の青葉公園に建てられた銅像だったが、戦時供出によりコンクリート製になり、戦後移転したりしたが、有志により現在に至っている。

松尾芭蕉は桜井の別れの画像を見て、次のように詠んでいる。
いうまでもなく、「楠」は忠義の心が鉄石の如く堅固な正成、「なでし子」は11歳の正行をさしている。
正成之像
鉄肝石心此人之情
なでし子に かゝるなみだや 楠の露     ばせを 
                                   (史邦編「芭蕉庵小文庫」)



イメージ 4

                             「楠公父子訣別之所」碑
大正2年(1912)7月建碑 題字は陸軍大将・乃木希典の書 
裏面には枢密院顧問官・細川潤次郎の撰文、寺西易堂の書



イメージ 5

                             明治天皇御製碑
昭和6年(1931)建碑 表面の書は海軍元帥・東郷平八郎
子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて 昔をしのふ さくらゐのさと
明治天皇が明治31年(1898)三島地区での陸軍大演習に行幸された時詠まれたもの。
裏面上部「七生報国」は小笠原長生の書、下部の漢詩は頼山陽の「翁過桜井驛」の詩で、文政8年(1825)尺代村に来遊した時の作と思われる。 書は第四師団長・林弥三吉





イメージ 6忠義貫乾坤碑(チュウギケンコンヲツラヌクノヒ)
明治27年(1894)建立
当時は「楠公父子訣児の処」碑と並んで玉垣の中にあった。
昭和14年(1935)史跡の拡張により現在地に移された。




イメージ 7旗立松(ハタタテマツ)
旗掛松、子別れ松とも呼ばれる。
西国街道の端にある枝を広げた老松のもとに駒を止め、楠父子が訣別したと伝えられる。
明治30年(1897)枯死し、一部切り取って小屋に保存。


楠正成、これを最後と思ひ定めたりければ、嫡子正行が十一歳にて父が供したりけるを、
桜井の宿より河内へ帰し遣はすとて 庭訓を遣しけるは、
「獅子は子を産んで三日を経る時、万仭の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、
教へざるに中より身を翻して、死する事を得ずといへり。
況や汝はすでに十歳を余れり。
一言耳に留まらば、吾が戒めに違ふ事なけれ。
今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生に汝が顔を見ん事、これ限りと思ふなり。
正成討死すと聞かば、天下は必ず天下は将軍の代となるべしと心得べし。
しかりといへども、一旦身命を資(タス)けんがために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行迹(フルマヒ)
を致す事あるべからず。
一族若党の一人も死に残ってあらん程は、金剛山に引き籠り、敵寄せ来たらば、命を兵刃に堕し、
名を後代に遺すべし。
これをぞ汝が孝行と思ふべし。」
と、涙を拭って申し含め、主上より給はりたる菊作りの刀を記念(カタミ)に見よとてとらせつつ、
各東西に別れにかり。  (「太平記」巻第十六  楠正成兄弟兵庫下向の事)





−桜井の訣別(青葉茂れる桜井の)−
                  落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲 明治36年
 

1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
 
  木(コ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
 
  忍ぶ鎧(ヨロイ)の袖の上(エ)に  散るは涙かはた露か


2.正成涙を打ち払い  我が子正行(マサツラ)呼び寄せて
 
  父は兵庫に赴かん  彼方(カナタ)の浦にて討ち死せん
 
  汝(イマシ)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ
 

3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人
 
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
 
  未だ若けれ諸ともに  御供(オントモ)仕えん死出の旅
 

4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず
 
  おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(ママ)ならん
 
  早く生い立ち大君(オオキミ)に  仕えまつれよ国の為
 

5.この一刀(ヒトフリ)は往(イ)にし年  君の賜いしものなるぞ
 
  この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん
 
  行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん
 

6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに
 
  またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ホトトギス)
 
  誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を

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