ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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京都では、観光の冬枯れ時を少しでも補おうとするのであろうか、非公開文化財特別公開を行っている。

宝鏡寺は最近では「人形の寺」とも称される尼門跡寺院で、普段は非公開であるが、現在公開中であるの

で行ってみた。

宝鏡寺は、相国寺の西約500、堀川通り近く,寺之内通りに面してあった。

大門より境内に入り、正面の表玄関から内部に入る。

勅使の間、本堂、勅作堂前、書院を通る。

その間南庭、中庭、鶴亀の庭の庭や襖絵、杉戸絵、十二単姿人形、御所の遊びを模した人形、雛飾り、御

所人形、調度品などの展示品を拝観した。

内部に入ると、観光協会の人であろうか、丁寧にガイドして下さるが、内部はもちろん庭や建物の写真撮

影禁止で、何一つ写真として記録に留めることはできなかった。

宝鏡寺は幕末、徳川14代将軍家茂(イエモチ)に降嫁した仁孝天皇の皇女・和宮が、幼少の一時期の安政4年(185

7)1月から5月住んでいたことでよく知られている。

宝鏡寺は、山号は西山、開山は光厳天皇の皇女・華林恵厳尼で、本尊は聖観音菩薩(秘仏)とする臨済宗の

尼門跡寺院である。

代々皇女、足利家や公家の息女が住持を務めた。

宝鏡寺の修復を行った、後西天皇の皇女・徳厳理豊尼は中興の祖と称せられる。

明和元年(1764)「百々(ドドノ)御所」という御所号が与えられた。

天明8年(1788)天明の大火で類焼したが、大門、玄関、使者の間、本堂、勅作堂(阿弥陀堂)、書院の6棟

が復興された。

昭和32年(1957)宝鏡寺に伝わる人形を一般公開するようになり、皇室ゆかりの「人形の寺」として広く親

しまれるようになった。

宝鏡寺を出ると境内の東南角に、ここから外の様子を覗いたという御物見があった。

また、その近くに「百々(ドドノ)御所」の名の由来となった「百々橋」があったが小川はすっかり埋めら

れ、その名残を示すものとして礎石の一部が置かれたあった。


イメージ 1大 門
寺之内通りに面して建つ




イメージ 2表 玄 関
表玄関より建物内部に入り右手に折れると使者の間となっていた。





イメージ 3中門、本堂
中門、塀越しに本堂の屋根を望む
手前には黄色の実を沢山つけた橘
右端は人形塚
本堂は文政10年(1827)上棟
本尊聖観音菩薩は二見が浦の漁網にかかったもので、宝鏡を持つ。
後光厳天皇より「宝鏡寺」の寺号を賜ったという。




イメージ 4人形塚
昭和34年(1959)京都人形商工協同組合など有志により建立された。
手に宝鏡を持つ御所人形
基壇正面には武者小路実篤の詩が刻まれていた。
        人形よ    
         誰がつくりしか
         誰に愛されしか
        知らねども
         愛された事実こそ
         汝が成佛の誠なれ   実篤
毎年10月14日に人形供養祭がおこなわれる。


イメージ 5御物見
門外の様子を眺める時に使用した小さな建物



イメージ 6百々橋(ドドバシ)の礎石
御物見のすぐ近く、寺之内通りと小川通りの交差点の西南角に置かれていた。
応仁の乱(1467〜1477)の際細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が端を隔てて合戦を行った。
古来板橋だったが、近世になって石橋に架け替えられた。
昭和38年(1963)小川は埋め立てられ、橋材の大部分は洛西ニュータウンの竹林公園内に復元され、橋脚を支える4基の礎石のうち1基は室町小学校校庭に、1基は当地に遺された。

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