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名古屋城城域の東部分の広い区域は二の丸である。
二之丸には、明治初めまで二之丸御殿などが立ち並んでいたが、明治5年(1872)
から東京鎮台第3分営兵舎として使われ、明治6年(1873)6月取り壊された。 かっての二之丸の南半分以上は愛知県体育館となっており、北半分部分が二之丸広場、二之丸庭園等になって、現名古屋城の城域となっていた。
二之丸は、戦国時代の那古屋城跡であるというがそれを伝えるものは見当たらなかった。
那古屋城は大永(1221〜28)の初め今川氏親が名古屋台地の西北端である二之丸辺りに築いた城で一族の今川氏豊を城主にして守らせたが、織田信長の父・信秀によって奪われた。
天文4年(1535)織田信秀が古渡城に移った後、織田信長が居城とした。
弘治元年(1555)信長が清須に移った後、一族の織田信光が居城にしたがやがて廃城となった。
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清正石
本丸搦手桝形石垣にあり名古屋城での最大の石
黒田長政の担当区画であるが、巨石である故
普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。
清正石曳き像
二之丸西端、に建っていた。
天守の石垣普請は加藤清正が割り当てられた。
巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り、
音頭をとったとされる。
二之丸広場での様子
大道芸人がでたり、露店が出ていた。
背後の
左の櫓は東南隅櫓
右端は天守閣
二之丸庭園入口
二之丸庭園
藩訓秘伝の碑
「王命に依りて催す事」と刻まれている
初代藩主徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中に一項で勤王の精神について述べている。
歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあったては親藩であったが、勤王帰一を表明したと言われる。
この碑の位置は二之丸御殿跡である。
「青松葉事件之遺跡」の碑
慶応4年(1868)正月20日二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の3重臣が斬首され、いわゆる「青松葉事件」が始まった。
昭和の初め「青松葉事件之遺跡」碑がここから南へ約100mの処刑地跡に建立されたが、その後所在不明となり、ここに復元された。
青葉事件は慶応4年1月20日から25日にかけて発生した尾張藩内の佐幕派弾圧事件。
斬首17名、処罰20名に及んだ。
事件名は、処刑された重臣の筆頭格・渡辺在綱の家が青松葉と呼ばれたことによる。
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2013年06月28日
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