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いわゆる小京都と言われる町のほとんどが城下町である。
龍野も例外でなく、標高200m余りの鶏籠山(ケイロウザン 城山)の麓にたつの城があるので、行ってみた。
現在のものは昭和50年前半に再建されたものであるがその歴史をたどると、室町時代にさかのぼる。
龍野城は、15世紀後半に赤松村秀によって、鶏籠山(ケイロウザン)山頂に築かれたのが始まりといわれる。
村秀は、当時播磨・美作・備前の国主であった赤松氏の一族で、揖東・揖西郡を治めていた。
龍野赤松氏は村秀、政秀、広貞、広英と4代続くが、広英の時の天正5年(1577)織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨征伐があり、戦わずに軍門に下り開城した。
その後、蜂須賀正勝、福島正則などの豊臣配下の大名が在城した。
文禄4年(1595)の絵図によれば鶏籠山(城山)の麓に民家の集落が描かれており龍野の町場がすでに形成されていたことがうかがえる。
江戸時代に入り、池田氏が領すると、山頂の天守閣が破却され、三の丸にあたる現在地に本丸が築かれたという。
その後は、本多、小笠原、岡部、京極が城主となった。
この時代に近世の城下町の形を整えていった。
万治元年(1658)京極氏が丸亀に移った時、城は破却され、その後14年間天領として代官によって支配された。
寛文12年(1672)信州飯田より脇坂安政が入部した。
その当時、城も侍屋敷も壊され「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」で安政自身も城下の商家を居館とし、1年あまりで城を再建した。
時代は既に太平の世であり、脇坂氏はもともと外様大名であったので、幕府の嫌忌に触れることを恐れ、武装化した邸宅と言った感じの御殿式に築城した。
脇坂氏は、その後明治2年(1869)までの約200年間10代にわたり治めた。
明治4年(1871)廃藩置県により龍野城の建物はすべて競売により取り壊された。
しかし、昭和50年(1975)より5年間で、脇坂時代の城跡に、城壁、多門櫓、埋門、石垣、本丸御殿、鍛阪門(シコロサカモン)が再建され、後に隅櫓が建築された。
訪れた時は来訪者の姿はほとんどなかったが、蝉の鳴き声がうるさかった。
再建は現在残る絵図を参考にすべて木造、土塀で建てられた。
石垣と石段
本丸御殿玄関
本丸御殿は藩の政庁であり、藩主の住まいであった。
本丸御殿
本丸御殿上段の間
障壁画は金泥引・金砂子打にて豪華さを再現していた。
隅櫓
家老門
脇坂家家老宅の門、現在は門だけ残る
武家屋敷資料館
主屋は天保8年(1837)前後建築 およそ二人扶持、御流格もしくは御盃格の武家の住宅
ごく最近まで使用されていた住宅を整備公開しているもの。
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2013年07月28日
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