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金ケ崎城址、金崎宮の入り口に「金前寺」という高野山真言宗のお寺があった。 本堂の裏手に芭蕉鐘塚があるというので寄ってみた。 堂宇境内の整備は近年のものであるが、次の様に由緒は古い。 天平8年(736)聖武天皇の勅により泰澄が十一面観音坐像を刻み本尊として、現在の金崎宮の地に創建と伝 えられ、気比宮奥院であった。 弘仁2年(811)には弘法大師空海が滞在した。この頃は12坊を有し壮麗だったという。 延元の争乱時(1336〜1337)には大血戦の本宮となり、尊良(タカヨシ)親王および義貞の嗣子・義顕(ヨシアキ)は当 山の観音堂で自刃したと言われる。 元亀元年(1570)の織田信長の天筒山攻めの兵火により堂宇全焼した。 寛文2年(1662)現在地に観音堂を再建したが、 昭和20年(1945)7月空襲により堂宇寺宝の一切が灰燼に帰した。 昭和63年(1988)現在の本堂を再建、本尊は十一面観音立像、脇侍は不動明王、毘沙門天 現在の本尊は、金前寺末寺であった気比地蔵寺の本尊で戦時中疎開していたものを昭和21年(前)本堂再建 時本尊として迎えたもの。 山号:誓法山 本尊:十一面観音菩薩立像 芭蕉翁鐘塚 本堂裏手にあった。 そば(左手前)の説明碑には次のように刻まれていた。 「芭蕉翁鐘塚 月いつこ 鐘は沈る うみのそこ この句は、元禄2年(1682)8月15日の雨月に翁が南北朝時代金ケ崎城の悲劇にまつわる陣鐘の事を 聞き詠んだものである。この塚は翁の没後78年に白崎琴路らが建立し、その翌年より墨直しの 行事が行われ、古例となった。」 「おくのほそ道」によれば、陰暦8月14日夕方敦賀に着いた。当日は大変天気が良かった。しかし、当地方は天気が変わりやすいと言っていた宿の亭主が言った通り、翌日15日は雨だった、と記している。 芭蕉が句を詠んだ状況についてもっと知ろうと、出典を調べてみた。 (1) 桂下園東恕編「俳諧四幅対」 おなじ夜 あるじの物語に、此海に釣鐘のしづみて侍るを、国守の海士を入てたづねさせ給へど、 竜頭のさかさまに落入て引きあぐべき便もなしと聞て 月いづく 鐘はしづめる 海の底 {(元禄2年8月15日は中秋の名月の日にもかかわらず雨降りで)その同じ夜、宿の主人が話すところでは、この敦賀の海には(南北朝争乱の時新田義貞が)鐘を沈めたそうで、(後に)国守が海士を海中に入れて探させたところ、竜頭を下にして、さかさまなって落ち込んでおり、引き上げる術がなく今でもそのままになっている、ということだ。それを聞いて詠んだ。 「月いづく・・・( 楽しみにしていた今夜に、月が雲に隠れてしまってどこにあるのかさえ分からない。釣鐘もまた海の底に沈んでしまっていて、撞かれて音を発することもないことだ。)」} (2) 句空編「草庵集」 中秋の夜は 敦賀にとまりぬ、、雨降れば 月いづこ 鐘はしづみて 海の底 ばせを 他に、「荊口句帳」、真蹟短冊などにもみとめられたが、詞書もほぼ同じようであった。
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2013年09月15日
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