ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。 その夜月殊に晴れたり。

あすの夜もかくあるべきにゃといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴ははかりがたしと

あるじに酒をすゝめられて、けひの明神に夜参す。(松尾芭蕉「おくのほそ道」)


金ケ崎城から駅方向に向かって20分ほど歩いていると、気比神社社頭に出た。

境内には、9月初め行われる敦賀祀りの準備で業者が入っており、何か忙しい感じであった。


主祭神気比大神は、神代からこの地に祀られていた。多分地元豪族の祖先神であったろう。

しかし、やがて皇室の崇敬をうけるようになった。

大宝2年(702)文武天皇の勅により仲哀天皇、神宮皇后合祀して本宮とし、その後日本武尊初め四柱神を

「四神の宮」に祀った。

霊亀元年(715)我が国最初の神宮寺が成立したという。(気比神宮寺の終焉は定かでない)

藤原武智麻呂の夢中で気比大神が仏道による救済を求めたという神身脱説話は、神仏習合の初期的説話で

ある。

中世には近江や北陸道諸国に広大な神領を持ち、その祀官の強大な勢は、奥越地方の平泉寺(ヘイセンジ)衆徒

と並び称された。

しかし、南北朝争乱時には大宮司・気比氏治は南朝方に与したが、利非ず、延元2年(1337)一門ことごとく

討死した。

更に、元亀元年(1570)織田信長と朝倉義景との抗争では、大宮司憲直等の一族は朝倉方として天筒山で戦

い敗れた。

その結果、寺坊、社殿は灰燼に帰し、神領は没収され祭祀は廃絶するに至った。

江戸時時代に入り、慶長19年(1614)福井藩藩祖・結城秀康が社殿を造営し、社家8家を復興し、神領100石

を寄進して再興した。

こうして、近世以降は日本海側の中心的な航海安全の神として越前国一宮、さらには北陸道総鎮守といわ

れ、「延喜式」式内の明神大社に並び旧官幣大社の社格を有した。

しかし、昭和20年(1945)7月12日の米軍空襲により赤鳥居を除く建物をすべて焼失した。

その後、昭和57年(1982)「昭和の大造営」により今日の姿に復している。

因みに、古い由緒を持つ神社だけあって、境内には多くの境内社がある(17社あるそうだ)。

その中に、都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノミコト)を祀る摂社角鹿(ツヌガ)神社が境内の東端にある。

現在の敦賀のもとはの地名は「角鹿(ツヌガ)」でこの神社の名に由来するそうだ。

芭蕉もこれに因んで、「ふるき名の 角鹿(ツヌガ)や恋し 秋の月」(「荊口句帖」)と詠んでいる。


冒頭に記したように、「おくのほそ道」を旅する松尾芭蕉は最後に敦賀を訪れ、元禄2年8月14日

(陽暦1689・9・27)の夜、即ち中秋の名月の前夜、気比神宮を参拝している。

この関係で境内には、芭蕉像や幾つかの芭蕉句碑が建っていた。

「おくのほそ道」は冒頭の文に続いて、次の様に記している。

仲哀天皇の御廟也。

社頭 神さびて、松の木の間に月もり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし。

往昔(ソノムカシ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土砂を荷ひ、泥渟

(デイテイ 水たまり)をかはかせて、参詣往来の煩(ワズラヒ)なし。

古例、今にたえず、神前真砂荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主のかたりける。

  月清し 遊行のもてる 砂の上

十五日 亭主の詞(コトバ)にたがはず 雨降る

  名月や 北国日和 定めなき          (松尾芭蕉「おくのほそ道」)


イメージ 1

                              気比神社社頭
赤鳥居の前に「官幣大社 気比神宮」の社標が建つ。
赤鳥居は寛永年間(1624〜1644)旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採した榁で、1本から両柱を建て再建したもの、重文
正面の「気比神宮」と記した扁額は有栖川宮威仁親王の御染書という。
この赤鳥居は、安芸の厳島神社、大和の春日大社の鳥居とともに、木造鳥居として三大鳥居に数えられている。



イメージ 2  中鳥居
神門・回廊の奥正面に外拝殿が建っていた。





イメージ 3  外拝殿
奥に本殿、四神之宮があり、
伊奢沙別命(イササワケノミコト 気比大神)
帯仲津彦命(タラシナカツヒコノミコト 仲哀天皇)
息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト 神功皇后)
日本武尊(ヤマトタケルニミコト)
誉田別命(ホンダワケノミコト 応神天皇)
玉姫命(タマヒメノミコト)
武内宿祢命(タケノウチノスクネミコト)
 の7柱が祀られている。





イメージ 4  旗揚松
中鳥居の近くに植えられている松
南北朝争乱時代の延元元年(1336)大宮司気比氏治が後醍醐天皇を奉じ、気比大明神の旗を揚げて戦勝祈願した松。
現在二代目





イメージ 5  絵馬
社頭の赤鳥居がシンボルである。





イメージ 6  芭蕉像
台座には「月清し 遊行のもてる 砂の上
        はせを」と刻まれていた。



向って左奥に「芭蕉翁月五句」の碑があり、
次の五句が刻まれていた。
国々の 八景更に 気比の月
月清し 遊行のもてる 砂の上
ふるき名の 角鹿(ツヌガ)や恋し 秋の月
月いつく 鐘は沈る 海の底
名月や 北国日和 定めなき






イメージ 7  芭蕉句碑
次のように刻んでいた。
向って左側の碑
松尾芭蕉杖跡
なみたしくや 遊行のもてる 砂の露
月清し 遊行のもてる 砂の上
向って右側の碑
気比のみや
なみたしくや 遊行のもてる 砂の露    
             はせを


少し脱線しているような気がするが脱線ついでに「おくのほそ道」に記されている「遊行の砂持(スナモチ)」

について註釈代わりに知る所を記す。

正安3年(1301)時宗の2世遊行他阿真教上人が北陸巡錫の際、敦賀を訪れた。

この時(現アクアトム辺りにあった)西芳寺に滞在した。

西芳寺と神宮の間が沼地で、参詣者が不便していることを知り、信者や町人たちと共に5町余り離れた海

浜から砂や石を運び参道を整備した。

この道が門前町の神楽通りとなり、東参道にあった鳥居も西に移された。

この故事に倣って、神奈川県藤沢市の遊行寺の住持が代替わりの度にこの行事が催される。

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