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本来の礼拝に従い、境内の東に位置する三重塔の薬師如来に苦悩の救済を願い、その前で振り返り 池越しに彼岸の阿弥陀如来に来迎を願った。 この後、本堂(国宝)にて九体の阿弥陀如来坐像を拝観した。 「三尺ほどの高さの黒ずんだ壇の上に、ずらりと一列に九体の金色の阿弥陀如来が居並んでいる。 如来たちが顔を向けている方には障子をあけると池が見え 池の向こうの塔が見える筈である。」 (井上靖「美しきものとの出会」浄瑠璃寺の九体仏) 本堂には木造漆箔の九体の阿弥陀如来像(平安時代 国宝)が一列に坐していた。 中尊は、華麗な蓮華九重座に坐し、千仏光背を背にした周丈六(丈六よりやや小さい、像高2.2m)の像で上 品下生印の来迎印を結んでいた。表情は定朝様式に通じる穏やかなものであった。 本尊の左右に半丈六の阿弥陀如来坐像各4体(像高1.4m、上品上生の定印を結ぶ)が並んでいた。 平安時代後期、末期思想の流行で、「観無量寿教」に説かれた九品往生―人間の努力や心がけなど、いろ いろな条件により上品上生(ジョウボンジョウショウ)から下品下生(ゲボンゲショウ)まで9つの往生の階段があると いう考え―から九つの阿弥陀如来像をこぞって造立し祀った。 孫引きであるが、「栄花物語」によると、藤原道長は自ら造営した無量寿院(後の法成寺)で、 左右4体の脇仏の手に通した中尊の手にまとめた五色の紐の端をもって往生したという。 平安時代後期の九体阿弥陀堂は、三十数宇の例が知られるが、長い年月の間に失せてしまい、浄瑠璃寺の それが現存する唯一のものとなった。 昭和39年(1964)浄瑠璃寺を訪れた堀口大学は次の様な感想を述べている。 「浄瑠璃寺に限らないが、総じて大和路で拝むみ仏たちは、大きなおからだのわりに、お堂がせまく、 天井がつかえそうなで、窮屈なご様子なのが気になる。安置し奉ったと言うよりは収容申し上げた というに近い感じがする。」 (堀口大学「浄瑠璃寺の秋」) は堀口の考えに同意できない。なぜなら、この堂の大きさであるこそ像の大きさが強調され、入堂した者に圧倒的な存在感を示している と思うからだ。 他に、持国天・増長天(藤原時代 国宝)、不動明王・制多迦童子・矜羯羅童子(鎌倉時代 重文)、子安地 蔵菩薩立像(鎌倉時代 重文)等を同時に拝観できた。 ただ、井上靖が「藤原期の人々が夢みた美女の理想をここに見るような気がする。」(「美しきもの との出会い」)と評した吉祥天像は秘仏故今回は拝観できなかった。 本堂の周囲には石鉢、南無阿弥陀仏の石碑があった。 また、百日紅、芙蓉、紫苑、萩、秋明菊、コスモスなどの秋の花々が咲いていた。 浄瑠璃寺は花の寺でもあるのだ。 本 堂 嘉承2年(1107)建立 正面11間 側面4間 九体阿弥陀如来(国宝)を安置する細長い建物 国宝 太陽が沈む西方浄土へ迎えてくる阿弥陀如来を礼拝できるよう東向きにしている。 宝池越しの本堂 安置する阿弥陀如来一体一体が堂前にいた扉を持っているが、すべて閉じられていた。 通常閉じられているが、和辻が訪れてた時は開けられていたのであろう、次のように書いている。 何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。 開いた扉のの間から金色の仏が見えるのもよかった。 あの優しい新緑の景観の間に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、 いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい。(和辻哲郎「古寺巡礼」) 九体仏を拝観した後、再び三重塔近くから本堂を眺めた。 本堂の扉は閉まっていても、九体の阿弥陀如来が姿を見せ、池面にもその姿を映しているといった、 和辻の記すような光景は容易に想像することができた。 それは平安貴族たちも同じだったに違いない、そして浄土の境地に夢見たに違いない。 本堂内の九体仏 図録より写す 永仁4年(1296)制作された12角形の石鉢 本堂出入り口には、百日紅、芙蓉、紫苑、萩、秋明菊、などが咲いていた。 |
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2013年10月10日
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は堀口の考えに同意できない。


