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大阪城は今では市民の憩いの場となっているが、戦前は、本丸に陸軍第四師団司令部が置かれ、東側には 東洋一と言われた兵器工場・大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)があった。 即ち、日本陸軍の一大拠点でもあった。 JR大阪城公園駅で下車し、外に出ると、ほぼ正面には大阪城公園の「太陽の広場」や大阪城ホールなどが あり、右(北)手には平野川(第二寝屋川)越しに大阪ビジネスパークのビル群、左(南)手には記念樹の森、 市民の森がひろがっている。 しかし、このような光景になったのは比較的最近の事で、戦前はこの辺りは大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵 工廠)の工場が拡がっていた。大阪城ホールがある辺りに本館(昭和56年5月取り壊し)があった。 また、大阪城公園の南端にある「ピースおおさか」は大阪砲兵工廠の診療所跡である。 第二次大戦では米軍の徹底的な爆撃を受け、戦後は長い間放置されていた。 大阪城公園およびその周辺を歩き、それらの痕跡を尋ねてみた。 太陽の広場近くに大阪砲兵工廠があったことを伝える「砲兵工廠跡の碑」があった。 また少年野球場と大阪城ホール敷地の境界あたりの平野川岸に「荷揚門」、大阪城公園の北端、追手門学 園の東側に、「化学分析場」や、砲兵工廠の正門にもなった「筋鉄門」跡があった。 本丸では、天守閣の南側に、陸軍第四司令部庁舎が残っていた。 戦後、昭和35年(1960)から平成13年(2001)まで大阪市立博物館として使用され、現在は空き家となってい たが存在感のある建物には変わりなかった。 大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は大村益次郎の建議により、明治3年(1870)2月大阪城三の丸跡に創設された「大阪造兵司」を始まりとする。 その後、拡張されると共に、「大阪砲兵工廠」などと数度改称された。 各種火砲などの兵器製造し大戦末期の従業員(一般工員、動員学徒、女子挺身隊、一般徴用工等)は約6万人余という。 昭和20年(1945)8月終戦と共にその使命を終えた。 平野川(第二寝屋川)に面し、重量物の搬出入を行った。 川の対岸より撮影。 大正8年(1919)築 煉瓦造2階地下1階建 兵器開発や化学実験が行われた。 平成6年(1994)まで自衛隊の事務所として使用していたが今は無人。 筋鉄門は元和6年(1620)築かれた。 扉が筋鉄張だったからそう呼ばれた。 明治時代になると「大阪砲兵工廠」の表門として使用された。 現在は石組と煉瓦積み部分が残っていた。 旧陸軍第四師団司令部庁舎(旧大阪市立博物館) 昭和6年(1931)陸軍第四師団司令部の庁舎として建てられた。 天守閣復興の際、市民から寄せられた寄付金150万円の内、庁舎建設に約80万円が投じられた。 戦後は、昭和35年(1960)〜平成13年(2001)まで、大阪市立博物館として利用された。 コンクリート造3階建、ロマネスクの様式、褐色色斑スクラッチタイル仕上げ |
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2013年10月17日
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