ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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大阪城「二の丸」の北の外側に作られた曲輪が「三の丸」、明治に入り大阪砲兵工廠が設置された。

その痕跡を求めて鉄筋門跡化学分析場を見た(「大阪城4」として投稿済)後、公園から少し外れて、

大阪府立女性センター北側にある豊臣時代の「大坂城三の丸石垣(復元)」と合同庁舎一号館南面にある

「東奉行所跡」を訪れ、その後京橋口に向かった。

京橋口は大阪城北西の出入り口で、北方の寝屋川(旧大和川)に京都に通じる京橋があることからこう呼ば

れている。

京橋口に向かって右(南)側は西外堀、左(北)側は北外堀である。

戦前までは、大手口と同様、立派な京橋門と多門櫓があったが、昭和20(1945)の空襲で焼失して、今は石

組が残るだけだった。

京橋口から二の丸に入ると右手前方に大きな狛犬が通路を挟んで一対安置されていた。

日中戦争中戦利品として持ち帰ったものだが、戦後日中友好の為中国より改めて贈与の手続きが取られ

たものとのこと。

何かとギクシャクしている今日、隣国と親しくなるよう改善されることを切望する。

右手は西の丸庭園になっているので先には進めない。

そこで、左手に内堀に沿って行くとやがて極楽橋の前に来た。


イメージ 1  豊臣大坂城三の丸の石垣(復元)
大阪府立女性センター(ドーンセンター)北側道路に面してあった。
平成元年(1989)同センターの建設に伴う発掘調査で、地下約20mのところで、長さ25mにわたる豊臣時代大坂城の石垣が発見された。
その一部を移築復元したもの。




イメージ 2  東奉行所址
大阪合同庁舎一号館の道路に面した境に碑が建っていた。
江戸時代、幕府が大坂の町を支配するために東西町奉行所を設置した。
東町奉行所は、現在の合同庁舎一号館辺りにあった。
西奉行所は、当初東町奉行所の西に隣接していたが、享保9年(1724)の大火の後、本町橋東詰付近に移転した。




イメージ 3  西外堀・乾(イヌイ)櫓
西外堀は、西の丸の西に位置する水掘で、北が京橋口、南が大手口である。
元和6年(1620)徳川幕府の大坂城再築工事で築かれた。
内側二の丸(西の丸)の、京橋口近くの石垣上には乾櫓が建っている。
乾櫓はL字型をしており、1階と2階が同じ面積になっている総二階造りである。




イメージ 4  北外堀・伏見櫓跡
北外堀は二の丸の北に位置する水掘で、西が京橋口、東が青屋口である。
もともと一続きの堀だった東外堀(北・東総延長約3km)、北方の旧大和川(平野川)べりと共に、元和6年(1620)大阪城再築工事で築かれた。
内側二の丸の西北にあたる石垣の隅には3層の伏見櫓が建っていたが、第二次大戦の空襲で焼失した。



イメージ 5  京橋門跡
江戸時代からの門・京橋門があったが、昭和20年(1945)の空襲で焼失し石組のみ残る。
門の背後は大手口と同じく枡形となっていて、城内第二位の巨石「肥後石」が顔を出している。





イメージ 6  京橋口枡形の巨石「肥後石」
京橋口は大手口と同じく桝形になっていた。
京橋門から入って正面のに見えるのが城内第二位の巨石「肥後石」である。
築城の名人加藤肥後守清正が運んできたと伝承されることからそうよばれている。
しかし、実際は備前岡山藩主池田忠雄が運ばせたもの。
肥後石の左手に京橋口二番石(城内第七位)の巨石がある。





イメージ 7  京橋口多聞楼跡
京橋口枡形石垣上には、大手口と同じく立派な多聞櫓が建っていたが、空襲で京橋門とともに焼失した。






イメージ 8

                                明朝の狛犬
日中戦争中日本に運び込まれた明朝時代の狛犬。
戦後も長らく山里丸に放置されていたが、昭和56年(1981)改めて中国から寄贈され、現在地に移された。
夫々高さ約3m、重さ約2.9t
正面に、内堀越しの天守閣が覗く。

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