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皇太子、諸大夫に謂りて曰く、「我、尊き仏像を有り、誰かこの像を得て、恭拝まむ」とのたまふ。 時に秦造河勝(ハタノミヤツコカハカツ)、進みて曰さく、「臣、拝みまつらむ」とまをし、すなはち仏像を受く。 因りて蜂岡寺を造る。(「日本書紀」巻第二十二 推古天皇11年《603》の条) (聖徳太子が大夫たちに語られた、「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を引き取って拝む者はいないか?」と仰られた。その時、秦造河勝が進み出て、私が拝みます。」と申し上げ、仏像をいただいた。 そして蜂岡寺《広隆寺》を建てた。) 木嶋神社から西に15分ほど歩くと広隆寺の前に着いた。 広隆寺の正門・南大門は道路脇ぎりぎりのところに建っている所為もあって、周囲を圧する感じであっ た。 南大門から境内に入り、広い境内の右手に重文の講堂が建ち、正面には本堂である上宮王院太子殿が建 ち、その奥に北奥に新霊宝殿があった。 講堂、上宮王院太子殿を参拝した後、新霊宝殿に入った。 そこでは、国宝1号の弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)を中心に、飛鳥から鎌倉時代の仏像が50体以上並 んでいるのは壮観だった(もちろん何れも国宝か重文であった)。 広隆寺は蜂岡寺、秦寺とも云われ、その創建は、推古天皇11年(603)秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わっ たのを契機とする説、や推古天皇31年(622)秦河勝が聖徳太子の菩提を弔うために建立した説(「広隆寺 縁起」)等、諸説ある。 広隆寺は弘仁9年(818)と久安6年(1150)の2度の火災で伽藍は悉く焼失したと言われるが、幸いに多くの仏 像が火災を免れ、良く保存されている。 これは、応仁の乱などで中世以前の文化財が乏しい京都にあって貴重な仏像の宝庫である。 元禄15年(1702)建立 三間一戸の楼門 仁王像 南大門の両脇に安置される仁王像は、室町時代造立と伝わる。 永万元年(1165)金堂として再建されたものを、永禄8年(1565)改築されて講堂となった。 京都では最古の建物 重文 内部は化粧屋根裏になっており、柱が丹塗されていることから、俗に「赤堂」と呼ばれている。 中央に阿弥陀如来坐像 平安初期 国宝 向って左に虚空蔵菩薩坐像 平安初期 重文 向って右に地蔵菩薩坐像 平安初期 重文 を安置する。 享保15年(1730)再建 本尊:聖徳太子像(11月22日開扉) 元永3年(1120)仏師頼範作 像内には全面金箔が張られ、法隆寺や四天王寺からもたされた太子所縁の品々が納められていると云う。 僅かな扉の隙間から中を覗くだけだった。 新霊宝殿は、上宮王院太子殿(本堂)の北側に、 昭和57年(1982)建設された。 造り酒屋が引き立てる町の景観・坂越2、赤穂市 秦河勝の墓 |
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2013年11月09日
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