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これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の 神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せ られるという悲運に遭った。 この放逐せられた偶像を自分の手に引きとろうとする篤志家はその界隈にはいなかった。 そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。 ある日、偶然に聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、 誰も拾い手がないのなら拙僧がお守りいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、 というのである。 (和辻哲郎「古寺巡礼」7) 談山神社から桜井駅行きのバスは、寺川沿いの緩やかな下り道を走る。 15分ほどで聖林寺バス停に着き、そこから田園地帯を南方に600mほど歩くと、多武峰北端の高台に聖林寺 が建っていた。 着いたのは、未だ14時前だったが、既に寺は陽の影になっていた。 早速拝観受付をしていただき、本堂にて本尊の子授け安産の祈願仏として知られる「子安延命地蔵」と背 後の如来荒神像(室町時代)、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)、毘沙門天像(鎌倉時代)などを拝し、 ついで本堂左奥に続く緩やかな登りの廊下を進み大悲殿(観音堂)にて、明治に来日し美術の保護に多大な 影響を与えたアメリカの美術史家・フェノロサが「大和の素封家の全財産にも勝る。」と激賞した十一面 観音菩薩立像を拝観した。 この十一面観音菩薩像立像は像高約2.1mの堂々たる体躯の木心乾漆像で、(有力な説として)天平時代の79 0年代に智努王(天武天皇の孫)が願主となり、東大寺造仏所でつくられたと言われる。 この十一面観音菩薩立像を拝した和辻哲郎は冒頭のに記したような数奇な運命を語ると共に、次のように 感想を述べている。 きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、−−すべてわれわれが 見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現す特殊な相好が あるわけでもない。 しかも、そこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさが現わされている。(和辻哲郎「古寺巡礼」7) この仏様について、 はこれ以上の感想の術を知らない。この後、別棟で11月30日までの予定で曼荼羅展を開催していたのでそれらを拝観し、再び本堂に戻った。 本堂右脇には、フェノロサが明治21年(1888)友人ゲローとともに寄進した厨子があった。 しかし、ここに安置すべき十一観音立像は、現在観音堂に移っているので中は空のはずだ。 本堂の北側の窓からは近隣の里やそれに続く大和盆地が眺められた。 長閑な初冬の風景だった。 聖林寺は和銅5年(712)藤原鎌足の長子・定慧が父の菩提を弔うために建てた庵が始まりとされる。 平安時代には談山(多武峰)妙楽寺の別院であった。 鎌倉時代の建久年間(1190〜99)興福寺の僧兵により焼失したが、大神神社の神宮寺のの一つ・平等寺の慶 円上人により再興された。 江戸時代の元禄年間(1686〜1704)に三輪山遍照院の性亮玄心(ショウリョウゲンシン)が遍照院をこの地に移し、霊 園山遍照院と称した。 江戸時代 中期、文春諦玄(モンシュンテイゲン)が丈六の地蔵菩薩坐像を造り本尊とした。 その頃寺号を聖林寺となった。 この様に聖林寺は大神神社の神宮寺とは緊密な関係があり、明治初年大神神社の神宮寺の一つ・大御輪寺 (現大神神社若宮社)から十一面観音立像が移されたのも、和辻哲郎が紹介したような経緯があったか どうかはともかく、極自然なことだと思える。 鐘楼の近くに茶所があったので、そこで薄茶を頂き少し休んだ。 これから桜井駅まで歩いて行く心算だ。 本 堂 江戸時代建立 前の一対の石灯籠には天保4年(1833)の銘があった。 境内には南天などが赤い実をつけていた。 本尊の子安延命地蔵菩薩坐像は元禄時代造られた丈六の石仏、唇と衣の先に紅が残っていた。 左右に掌善童子、掌悪童子を従えていた。 他に如来荒神像(室町時代)、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)、毘沙門天像(鎌倉時代)等を安置していた。 昭和34年(1959)より本堂脇の厨子より移され、ここに安置されている。 ガラス越しに拝するこの十一面観音は昭和26年(1951)に広隆寺の弥勒菩薩思惟半跏像と共に新国宝制度の 第一期の指定を受けた。 しかし、並び順で広隆寺の弥勒菩薩思惟半跏像が先頭になったので、広隆寺では国宝第一号といっている が本当は同時だとガラス前のガイドは、気の所為か、少し悔しそうに説明して下さった。 図柄は十一面観音菩薩立像 本堂からの眺め 茶所からの眺め |
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2013年11月29日
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はこれ以上の感想の術を知らない。


