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金ケ崎城跡の麓から中腹に金崎宮が鎮座している。 祭神は新田義貞と共に敦賀に下向した尊良(タカヨシ)親王と恒良(ツネヨシ)親王だ。 明治26年(1893)金ケ崎城址に創建された。 その後類焼により焼失したので、明治39年(1906)現在地に再建されたものだ。 麓から長い急な勾配の石段があり、その登った先に拝殿、中門 本殿が建ており、右側に社務所、左隣に 摂社の絹掛神社があった。 石段手前に「金崎宮は『難関突破と恋の宮』幸福の階段を駆け上がれ、神様はきっと願いを 聞いてくださいます」と記された立て看板があった。 南北朝の争乱や戦国の悲劇に思いを馳せていた にはやや違和感を覚えたが、ほほえましかった。奥の本殿には敦賀に下向した 尊良親王、恒良親王を祀る。 寝殿造の中門と本殿は平安中期の建築様式を模している。 本殿背後の高台に、尊良親王墓所見込地がある。 親王の墓は京都市左京区にあるので、落城時の親王自刃地ではないかとみられている。 小豆袋形の絵馬となっている。 元亀元年(1570)朝倉義景討伐のため金ケ崎に攻め陥落させた織田信長に、妹のお市から、両端を結んだ小豆袋が贈られてきた。 浅井氏が寝返り、朝倉・浅井により前後に挟まれた形になったことを知らせるものだ悟った信長は、急遽総退却を決断し、危機を脱出した。 延元2年(1337)金ケ崎落城の際、尊良親王に殉じて自刃した新田義顕、以下300余名を祭神としている。 |
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2013年09月14日
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にはやや違和感を覚えたが、ほほえましかった。

