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伊藤仁斎宅・古義堂址から更に堀川沿いを南下した。 やがて、堀川通りの向い(西)側は二条城となり、寒いにもかかわらず観光客が出入りしていた。 歩いている東側は、「京都老人サービスセンター キョウト ケア ハウス」のビル、その南隣は「京都 国際ホテル」となっていた。 「京都老人サービスセンター」の玄関前には儒医の「儒医 並河天民 請学所 堀木之舎址」、 「京都国際ホテル」の前には、北から「橋本佐内寓居跡」、「堀河天皇 里内裏址」、「福井藩邸跡」 の標石、あるいは碑が建っていた。 並河天民(ナミカワテンタミ 1679〜1718) 儒学を伊藤仁斎、医学を名古屋玄医(1628〜96)に学び、仁斎の学問を批判的に継承。 経世済民を重んじ儒医として活躍。 橋本左内は福井藩士で幕末の志士 安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩藩邸に居住して活躍した。 安政4年(1857)の藩政改革には由利公正らと手腕をふるった。 折から幕府の将軍継子問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜を立てる運動を展開、左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎または桃井伊織の変名の下に、ここを根拠に活躍した。 しかし、井伊大老の就任によって、この運動は失敗し、それのみか、左内は牢獄に入れられ、安政6年(1859)安政の大獄により処刑された。 時に年26歳。 二条通りと堀川通りによって画された東西120m、南北250mの地域は、古の堀川院の遺址であって、正式には左京二坊九、十町に当たっている。 初めそれは、関白藤原基経(836〜891)が造営した大邸宅であった。 彼は主に公式な行事の為本邸をを用いた。 ここで宴会が催されたときなどは、公卿たちの牛車は、堀川の東側に立てられ、牛は二条堀川の橋の欄干に繋がれていたという。 この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。 基経の没後、堀川院は息子の兼通の娘・媓子が円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所になったこともある。 堀川院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏)となった時期であって、天皇は嘉承2年(1107)7月ここで崩じた。 その委細は「讃岐典侍日記」に見事に叙べられている。 この油小路二条下る西側(現京都国際ホテル)の一帯には江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。 藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の経大絵図」に描かれている。 藩邸は京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当ったところである。 福井藩は慶長5年(1600)徳川家康の次男結城秀康が封じられにに始まる親藩の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以降は32万石。 幕末に松平慶永(ヨシナガ)が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革に乗り出し、更に、後部合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした。 |
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