ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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ひとまず都を御開きあって、西国の方へ御下向あり、御身に誤りなき通りを御嘆きあるべきため、

今日夜をこめ、淀より御舟に召され、津の国尼崎大物の浦と急ぎ候。
{(源義経は)ひとまず都を離れて、西国の方に下られ、御自身に罪ないということを、嘆願なさろうとするため、今日夜も深いうちに淀より舟を召されて摂津の国尼崎の大物浦へと急ぎます}
                                 (観世小次郎信光 「船弁慶」)

阪神「大物(ダイモツ)」駅で下車し、駅前の県道339号を南に100mほど行くと左手にお「大物主(オオモノヌシ)

神社が鎮座していた。

祭神は大物主大神、宗像三柱大神{市杵嶋(イチキシマ)姫命、田心(タゴリ)姫命、湍津(タギツ)姫命}である。

現在はずっと南に下がっているが、かっては海岸線はこの辺りにあり大物浦と呼ばれた。

社伝によれば、河口に点在する砂州の一つに大物主命(オオモノヌシノミコト)の社が祭りの場として建てられたのが

起源とするが時期は不詳である。

大物主命(オオモノヌシノミコト)の子孫で大神神社の神主の祖・大田田根子(オオタタネコ)の子孫・鴨部祝(カモベノヒフリ)あるい

はその氏族の一人が海岸に祀ったと言う口伝えがあるという。

また、平安時代末、安芸国主でもあった平清盛がこの社に厳島神社の神を勧請し、合祀し、海の安全を祈

願したという伝承がある。

江戸時代までは「大物社」、「大物若宮」、「若宮社」、「若宮弁財天」と呼ばれたが、明治7年(1874)

「大物主神社」と呼称した。

南に面して立つ石造鳥居から北に向う参道の先に社殿が建っていた。

それほど広くない境内には蝉の多くいるらしく蝉の鳴き声が煩い。

社殿の向かって左軒先に「義経弁慶隠家跡」の碑が置かれてあった。

平家を滅ぼした源義経が、源頼朝から追討され、当社目の前の大物浦より、西国へ逃亡の船出したといわ

れる。

船出前当社の左側の七軒(間)長屋に逗留したという口伝によるものらしい。

因みに、義経は大物浦より船出したものの、暴風雨の為、住吉浦まで押し戻されたかたちになり、吉野、

奈良とのがれ更に藤原氏を頼って奥州に下ったと平家物語は語っている。

能「船弁慶」ではこの暴風雨は、平知盛ら平家の怨霊として演じられている。




イメージ 1 大物主神社社頭
石造りの鳥居に続く参道の奥に社殿があった。




イメージ 2 大物主神社社殿
祭神:大物主大神
   宗像三柱大神
     市杵嶋(イチキシマ)姫命
     田心(タゴリ)姫命
     湍津(タギツ)姫命





イメージ 3 「義経弁慶隠家跡」碑
社殿の向かって左下にあった。

大物の浦より船に乗って下られけるが、折節西の風はげしく吹き、住吉の浦に打ち上げられて、

吉野の奥にぞこもりける。

吉野法師にせめられて、奈良へおつ、奈良法師に攻められて、また都に帰り入り、

北国にかかって、終に奥へぞ下られける。 (「平家物語」巻第十二 判官都落)





イメージ 4 「汗醤油発祥之地」碑
石造鳥居の側にあった。
尼崎は戦前まで醤油の醸造が盛んだった。
しかし戦後すっかり廃れてしまったが、
約半世紀ぶりに復活させたメーカーがあり、その成功を記念して建碑されたとの事であった。


イメージ 5 案内図

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