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山辺の道から分かれて、円照寺の西に帯解寺に向かって歩く。 長閑な田園を終り、民家が建込んだ地区に入るとすぐに帯解寺に着いた。 門前には「帯解子安地蔵尊」の石標が建っている。 山門の柱には、「文徳天皇・清和天皇両帝勅願所、美智子皇后安産帯献納所、子安山帯解寺」の表札が取 り付けられていた。 山門を潜ると左側に手水舎、右側に鐘楼が建ち、正面に本堂が建っていた。 境内は決して広くはないが、懐妊を願い、安産をいのり、御礼参りに訪れる人々が絶えないようだった。 帯解寺は山号を小安山、華厳宗の寺院である。 弘法大師の師・勤操大徳(ゴンソウダイトク)が宝亀年間(770〜780)に創建した巌淵寺の子院・霊松庵であった。 本尊は弘法大師が一刀三礼して掘ったといわれる地蔵菩薩半跏像。 子の恵まれなかった文徳天皇の后染殿皇后(藤原良房の娘、藤原明子)が春日明神のお告げに従い、当寺の 地蔵菩薩に祈願したところ、無事惟仁親王(後の清和天皇)を出産した。 大変喜んだ文徳天皇は天安2年(858)伽藍を建て、帯解寺の名を与えた。 永禄10年(1567)松永久秀の兵火で焼失し、江戸時代に復興したが安政2年(1855)安政の大地震で倒壊し、 安政5年(1858)再建されて現在に至っている。 現在でも皇室との関わりは深く、美智子皇后、雅子皇太子妃、紀子秋篠宮妃の御懐妊に際し、岩田帯・お 守りを献納しているそうだ。 門前の道は上街道(上ツ道)と呼ばれ、かっては京都、大坂、奈良から三輪山、長谷寺、伊勢神宮への参詣 道として賑わった。 参拝を終えた後、この道を南に足を向けた。 簡素な四脚門 かっては徳川2代将軍秀忠の正室・お江与が、後の3代将軍家光を授かった御礼に寄進した堂々たる楼門が建っていたが安政の大地震(安政2年、1855)で倒壊しその後再建されてもの。 内陣に安置する本尊は弘法大師が一刀三礼して掘ったといわれる地蔵菩薩半跏像(寄木造り、鎌倉時代、重文) 岩座上に坐し、裳の布、紐の結び目を腹の上に見せていることから「腹帯地蔵」とも呼ばれるそうだ。 本堂外陣隅に安置 涎掛けが多数奉納してあった。 千羽鶴が多数奉納してあった。 外陣の上方に絵馬が掛けてあった。 やはり子育て、安産に関するものが多かった。 山門を潜って左脇に安置 徳川4代将軍家綱が寄進したもの。 寛文2年(1662)3月の銘があるとの事だが、良く分からなかった。 平成21年(2009)落慶 一階回向殿、二階護摩堂 一階外壁面には仏殿レリーフ「釈迦誕生図」 種々のお守り、お札と共に安産の為の岩田帯を授与していた 小野小町が疱瘡を患い、この地の北の青井神社に平癒を祈願し、南に石上寺(今は廃寺)の僧正遍照をたずねた。 ここに留まり帯解地蔵を参拝したと言われる旧址がここにあった。 現在の社は新たに建てられたもの。 |
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2014年09月17日
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