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回廊に上がり、本堂の外陣に入った。 弁慶障子によって内陣と分けられてある。 さらに内陣に進むと正面に礼壇が置かれ、その向こうに胸ぐらいの高さの須弥壇が設けられてある。 そしてその前に金色に輝いた小さい十一面千手観音が置かれてあった。 (井上靖「星と祭」桃と李) 境内中央に建つ本堂に向かった。 本堂は桁行7間、梁間6間(正面20.41m、側面20.50m)一重入母屋造、檜皮葺の堂々たる大建築だった。 長命寺は「千手十一面聖観音菩薩」を本尊とし、西国33所霊場第31番札所である。 また、パンフレットには、開闢(カイビャク):長寿大臣武内宿禰、開基:聖徳太子とある。 寺伝によれば、長命寺は、景行天皇の御代に武内宿禰(タケノウチノスクネ)がこの山を拓き、柳の巨木に「寿命長 遠諸願成就」と刻み、長寿を祈願したのがはじまりである。 推古天皇27年(619)聖徳太子が諸国巡遊中にこの山を訪れ、光明を発する巨木に観音菩薩を感得し、 さらに宿禰の文字を見出した。 その時白髪の老翁が現れ、その霊木に観音菩薩像を彫り、祀ることをすすめた。 そこで太子は「千手・十一面・聖観音」の三尊一体の尊像を刻み、寺を建立して祀った。 武内宿禰の「寿命長遠」の霊験に因んで長命寺と名付けられた。 その後、中大兄皇子が行啓した時、瑞祥を現したので、祈願所に定められ伽藍が整えられた。 しかし、その後長く衰微していたが、承和3年(836)法橋頼智(ホウキョウライチ)が明神の夢告を受けて中興した。 その後、近江の佐々木氏の庇護のもとに発展し、西国31番札所として栄えた。 しかし、永正13年(1516)佐々木(六角)高頼とその家臣伊庭氏との間に争いが生じ、その兵火で堂宇悉く焼 失した。 大永4年(1524)本堂再建後、次第に復興が進み慶長13年(1608)鐘楼が完成してほぼ現在の寺観を整った。 無駄な装飾を用いない拡張高いたてもので、中世和様仏堂の好典型である。、 本堂へは西面から入り南正面に向かう。 自然石の碑は御詠歌碑 やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん 本堂南面 大永2年(1522)〜4年(1524)にかけて再建されたもので、寺内で最古の建物とのことだ。重文 昭和5年(1930)〜昭和7年(1932)にかけて解体修理が行われている。 桁行7間、梁間6間(正面20.41m、側面20.50m)一重入母屋造、檜皮葺 手前の小さな瓦葺の建物は閼伽井堂 本堂の檜皮葺の屋根の曲線が美しい。 左手前は護摩堂の屋根 中央本堂の奥(西)に三仏堂そして遠く鐘楼が望める。 回廊西端に安置されていた。 内陣とは黒格子で仕切られていた。 西国33所霊場第31番札所
黒格子の左右には小ぶりな仁王像が護っていた。 写真は内陣に向かって右のもの 東壁側に安置されていた。 子授け、安産、授乳の仏様とされており、女性の参拝者が多いとか。 蓮華座の元には乳房のぬいぐるみが多数奉納されていた。 金色の御前立の十一面千手面観音像が安置されていた。 本尊「千手十一面聖観音菩薩」は33年に一度開扉される秘仏で、今は厨子に納められていた。 井上靖の「星と祭」の主人公・架山は,御前立につづいて、三尊一体と言われる秘仏本尊の「千手十一面聖 観音菩薩」を拝した。 中央の千手観音については「顔も黒いし、体も黒い」と、その右手の十一面観音は「金箔が僅かに残 り、顔は瞑想的である。」と記している。
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2014年11月08日
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