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墓そのものは古風が保たれている。 石垣の上に土を盛り、芝をうえてその上に堂々たる五輪塔 がすえられているのである。 五輪には空・風・火・水・地と刻まれており姿もじついいい。 墓のそばに、辞世の歌碑がある。碑の裏をみると、昭和29年12月1日会津史談会之を建つとあって、 氏郷がわすれられていないことがわかってうれしかった。 (司馬遼太郎「街道をゆく ―奥州白河・会津みち―」 市街に眠る人々) 野口英世青春通りの東、市街を南北に突き抜ける「神明通りを東に渡った奥に、興徳寺があった。 興徳寺は、鎌倉時代末の弘安10年(1287)創建された臨済宗の寺院である。 臨済宗の会津における布教の拠点として、京都五山、鎌倉五山に次ぐものとされ大伽藍を誇ったが、戊辰 戦争の兵火で焼け今は昔日の面影はない。 山門外には虚空蔵菩薩堂、おさすり地蔵があり、門内には、本堂であろうか、鉄筋コンクリート造りの堂 宇「瑞雲閣」が建ち、境内奥に蒲生氏郷の墓があった。 墓の周囲はきれいに清掃されており、墓前には生花が供えられていた。 しっかりと守られているのをみて、心安らいだ思いがした。 体の悪いところと同じ部分を摩ると痛みを和らげてくれるという有難い御利益の地蔵・おさすり地蔵が鎌倉時代の頃からあった。 おさすり地蔵は長く厚く信仰されたが、絶えず摩られて最後は姿形が無くなったといわれる。 現地蔵は近年再造されたもの。 山門を入って右手に建っている鉄筋コンクrリート造りの堂宇。 蒲生氏郷廟所 氏郷(ウジサト)は文禄4年(1595)2月7日病没した。享年40歳 没後の翌年子の秀行によって建塔。 当時御霊屋があったが戊辰戦争で焼失した。 蒲生氏郷(ガモウウジサト 1556〜1595)は、近江国日野城主蒲生賢秀の子、織田信長に仕える。 14歳の時、信長の二女(三女?)冬姫の婿となった。後、秀吉に属し、天正18年(1590)会津に入封。 7層(今は5層)の天守、四方石垣の鶴ヶ城を整え、城下町を整備、郷里の森の名を因み、黒川を若松と改めた。漆器産業を植え付け文化興隆にも力を注いだ。 千利休切腹後、利休の次子・小庵を保護し、千家再興の道を開いた。 霊名を『レオ飛騨』と称し、東北における切支丹の先駆けとなった。 氏郷の遺髪を納めて五輪塔。 司馬遼太郎が記しているように、 上から如意宝珠に「空」、半月形に「風」 三角形に「火」、円形に「水」 最下壇の方形に「地」と 五大文字が刻まれている。 「限り有れば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」 蒲生氏郷 歌意は、人の寿命も桜の花も限りがあり、どうせ散ってしまうのに、心気ぜわしく花を散らす山嵐だ。 |
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2014年05月19日
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