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興徳寺に蒲生氏郷の墓を参拝した後、会津若松市のメインストリート神明通りを南に歩いた。 バス停「三の丁」を過ぎた四つ角で、西に折れた所に山鹿素行誕生地、直江兼続屋敷跡というところが あった。 満開の桜の樹の下に説明板と大きな山鹿素行誕生の地碑があるのみであった。 神明通りを更に南へ行く東に鶴ヶ城の堀が見えてきた。 この辺りはかっては上級武士の屋敷町だった様だ。 そして道路脇にと日新館跡碑があった。 更に数百メートル南に、新島八重と山本覚馬生誕地があるらしいがここでホテルに引き返した。 山鹿素行誕生地、直江兼続屋敷跡 山鹿素行誕生地:山鹿素行は元和8年(1622)この地町野左近の邸内で生まれた。9歳の時林羅山の門に入り、儒学、国学、神道、兵学の奥義を窮め、特に兵学において山鹿流の一派を成すに至り、その名声は天下にとどいた。大きな碑と説明板があり、山鹿町という地名にその名残を残している。 直江兼続屋敷跡:慶応3年(1598)越後から会津120万石の城主として入った上杉景勝は、上杉家筆頭家臣である直江兼続の屋敷としてこの地を与えた。説明板のみで碑らしきものはなかった。 大正15年(1926)4月建立、 書は東郷平八郎 藩校日新館建立之恩人須田新九郎頌徳碑(同 右) 日新館は会津藩5代藩主松平容頌(カタノブ)の時、享和3年(1803)に完成した。 寛政10年(1798)家老田中玄宰(ハルナカ)の進言により計画され、会津藩の御用商人(呉服商)須田新九郎が建設費を寄付したものだった。 藩校日新館は文武両道の学校で、上級武士の子は10歳で入学した。 敷地面積は7千坪余、孔子を祀る大成殿を中心に多くの学舎が建ち並び、常時千人もの生徒が学問や武芸を学んだ。 慶応元年(1868、明治元年)戊辰戦争で焼失しこの碑の西側に天文台の一部が残るのみである。 |
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2014年05月20日
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