ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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飯盛山は、今では白虎隊が主役の感のある場所だが、元々は信仰の場所であったようだ。

従ってその名残の建物(宇賀神社、厳島神社など)があるが、中でも特異な建物・栄螺堂に興味があった。

以前 TVで紹介されて知ったもので、一度見たいと思っていたのだ。

白虎隊(正しくは白虎士中二番隊)の19名の墓から少し下り、宇賀神社を過ぎたところに建っていた。

高さ16.5mの三層の仏堂で、中は二重螺旋になっている。

正面から螺旋状のスロープを右回りで上り、頂上の太鼓橋を越え、左回りのスロープを下ると背面の出口

に通じる。

昇降を通じ同じ建物内を三度回ることから三匝堂(サンソウドウ)の名がある。

スロープの内側に沿って西国33観音霊場の観音像が祀られており、一度めぐると巡礼を終えたことにな

るのだ。

この奇抜なアイデアとそれを造り上げた大工の技術に驚嘆してしまう

この後、厳島神社、満開の大夫桜を見終わると飯盛山の麓に戻ってきた。

実は、飯盛山に来た時、麓の土産物店の女店員がガイドしてくれるというので、彼女に金魚のウンコの様

にくっつき、彼女の講談調の名調子の説明に聞き惚れながら見物してきた。

見物が終わると店の中に連れ込まれ、お茶と試食を振舞われながら(別の店員による)剣舞を披露しても

らった。

そこまでされたら、手ぶらで帰る訳にはいかず、みそ煎餅3袋買い求めた。



イメージ 1 宇賀神堂
寛文年間(1661〜1672)建立
会津3代藩主松平正容(マサカタ)が弁財天像と共に五穀の神・宇賀神を奉祀した。
堂には飯盛山で自刃した白虎隊19士の像を安置してある。
明治23年(1890)白虎隊墳墓改修の際製作されたもの。
ただ一人の生存者飯沼貞吉(後改め貞雄)の写真も置かれてあった。
彼は、昭和6年(1931)に79歳で没した。


イメージ 2

                                栄螺(サザエ)堂
旧正宗寺三匝堂(ソウショウジ サンソウドウ) 六稜三層形式 正面に唐破風の向拝付 銅板葺(元木羽葺) 重文
寛政8年(1796) 会津若松の実相寺の僧・郁堂の建立と言われる。
若干傾いている様に見えることから、成瀬桜桃子は「天高し ピサの斜塔と さざえ堂」と詠んでおり、その句碑が近くに建っていた。




イメージ 3 厳島神社
主祭神:市杵島媛命
永徳年間(1381〜1384)当時の領主芦名直盛の家臣、石塚、石部、堂家の3家によって社殿が建てらえた。
別当は正宗寺
元禄13年(1700)会津藩主松平正容が神像と土地を寄進した
明治初期に厳島神社と改めた。
飯盛山の別名弁天山はこの神社にあやかるもの。





イメージ 4

                                  大夫桜
高さ約13m、周囲5.5mのエドヒガンザクラ。
蒲生忠郷(氏郷の孫)の頃の寛永8年(1626)若松城下の堀江町に「いっき大夫」という名妓がいた。
彼女が花見の折、この辺りで兇徒のために殺害された。
弟の南秀という滝沢南岳院の法師が霊を弔うため植えたさくら。
現在は2代目とのこと。




イメージ 5 剣舞の様子
麓の土産物屋の2階休憩場で店員が剣舞を披露してくれた。

白虎隊   作詞:島田磐也 作曲:古賀政男

戦雲暗く 陽は落ちて 孤城に月の 影悲し 
                   誰が吹く笛か 知らねども  今宵名残の白虎隊

紅顔可憐の 少年が 死をもて守る この保塞(トリデ)
                   滝沢村の 血の雨に 濡らす白刃の白虎隊


  南鶴ヶ城望めば 砲煙上がる    痛哭(ツウコク)涙を飲んで 且つ彷徨す

  宗社亡び 我が事畢(オワ)る     十有九士(ニン) 屠腹(トフク)して斃(タオ)

飯盛山の 山頂(イタダキ)に 秋吹く風は 寒けれど 
                   忠烈今も 香に残す 花も会津の白虎隊

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