|
ともかく古川町の町並には、みごとなほど気品と古格がある。 観光化されていないだけに、取りつくろわぬ容儀や表情、あるいは人格さえ感じさせるのである。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 高山から、JR高山線を普通で約15分行くと飛騨古川に着いた。 飛騨古川駅から5分ほど歩くと、古い家並みが残っている地域に入った。 特に鯉が放流されている用水路(瀬戸川)沿いの白壁土蔵が続く風景はなかなか良い。 そして、何よりも観光客の姿が少ないのが良い。 もそうだったが、高山までは訪れる観光客は多いが、飛騨古川まで足を運ぶ観光客は少ないのだろう。天正13年(1585)金森長近が秀吉の命で飛騨を平定後、飛騨を与えられ、古川を養嗣子可重(アリシゲ)の治所 とした。 可重は天正17年(1589)頃増島城を築城し、古川の城下町の造営に当たっては宮川の支流・荒城川から瀬戸 川に大規模な通水路を拓いた。 可重は父(長近)の高山城築城とならび、ここでも新時代に即したあたらしい城と城下町建設に 乗り出した。 おそらく姉小路時代の風韻の上に、可重好みを重ねた。(司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 瀬戸川は、今もなお生活、農業用水として地域を支え、放流されている鯉は飛騨古川の風物詩となってい る。 関ヶ原の戦い後、可重に代って長男重近(金森宗和、茶道宗和流の祖)が慶長19年(1614)京都に移り住むま で二代目城主を務めた。 元和5年(1619)幕府の一国一城令により増島城は取り壊され、石垣が残るだけである。 高山より普通で約15分 瀟洒な駅で徒歩5分ほどで町並みに入る。 古川にあっては、高山と同様、飛騨風の二階だてが多く、町屋も微妙に軽快で、かすかに重量感 があり、これ以上の釣り合いがのぞめないくらいである。とくに階上と階下の格子戸が間口の長さ を美しさとしてみごとに演出している。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 瀬戸川沿いの家並み 瀬戸川は瀬戸屋源兵衛という人が世話人になって造られたので瀬戸川と呼ばれていると言う。 昔の瀬戸川は野菜なども洗えるきれいな用水だったが、高度成長のころ著しく汚れた。 瀬戸川を再び美しくしようと、昭和43年(1968)鯉が放流された。 放流されている瀬戸川の鯉は古川の風物詩となっている。 なお、冬の間は越冬池に移され、春に再び放流される。 瀬戸川沿いの白壁土蔵(円光寺付近) 瀬戸川を挟んで(向かって)左手に円光寺、右手は渡辺酒造店の白壁土蔵群 円光寺の高さ50センチほどの低い石積みの結界と、となりの白亜の酒蔵とのとりあわせがよく、 そのあいだをながれる用水路(瀬戸川)の水のきらめきをふくめて、みごとな日本建築群による 都市造形をつくりあげている。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 円光寺は山号を照耀山と号する浄土真宗の寺。 一世正祐が永正11年(1514)古川郷字津江村海具江に道場「垣株堂」を開設したのが創り。 その後移転を繰り返すが元和7年(1621)現在地に移った。 正徳2年(1712)円光寺と改め現在に至る。 毎年1月15日親鸞聖人の遺徳を偲び円光寺、真宗寺、本光寺を参拝する伝統行事「三寺まいり」が知られ る。 元和5年(1615)の幕府の一国一城令により廃城された増島城城門を元禄8年(165)移築したもの。 破風のような小さい櫓が付き、「垣株堂」の額が架かる。 見あきぬほどにかたちがいい。この門一つを見ても、茶人金森可重(アリシゲ)の美的感覚のほどが 察せられるのである。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 寛文7年(1667)建立 円光寺境内隅に置かれてあった。 昔古川町上野字塔の腰にあった上野廃寺の五重塔の心礎 明治初年、塔の腰から当寺境内に移された。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2014年06月11日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]
もそうだったが、高山までは訪れる観光客は多いが、飛騨古川まで足を運ぶ観光客は少ないのだろう。


