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久しぶりに晴天で寒さが和らいでいるので、行き先を考えず、ぶらりと京都に出てきた。 今NHK大河ドラマでは幕末を舞台にした「花燃ゆ」が放送されている。 ドラマは吉田寅次郎(松陰)が野山獄から出て塾を開くところになっている。 ドラマを見ていて少し違和感を感じる。 その頃の主人公杉文は12歳ごろのはずで、それをはるかに年上の井上真央が演じているからであろう。 そんなことを思いながら幕末舞台となった京都御所まわりを巡ろうと「京都御苑」に足を向けた。 地下鉄「今出川」で下車し、今出川通りに面した今出川御門から御苑にはいった。 美しい御苑を見るなら春以降が良いのだが御苑内の歴史ポイントを探すなら葉が落ちている今が良いかも しれない。 京都御所周辺にあった公家屋敷で最後に残った建物。 京都御苑の北・今出川通りに南面し、他の三方は同志社大のキャンパスとなっている。 冷泉家は歌人として知られる藤原定家の孫・冷泉為相(タメスケ)を祖とする公家で、住宅はは寛政2年(1790)の建物。御文庫には国宝5件、重文47件を含む貴重な典籍が保存されている。 今出川御門から御苑に入ると西側が近衛邸跡である。 近衛家は五摂家の一つ。 今も残る近衛池の西側に大きな屋敷があった。 池の畔には糸桜が植えられている 昔から糸桜の名所であった。 NHK大河ドラマにもなった「篤姫」は安政3年(1856)近衛忠熙の養女として、13代将軍徳川家定に輿入れしている。 なお、五摂家とは近衛家、鷹司家、九条家、一条家、二条家を指す。 今出川御門を入って東側。 築地塀と門のみ残り、建物は二条城本丸に移築保存されている。 幕末には孝明天皇の仮御所になったこともある。 皇女和宮親子(チカコ)内親王はここから江戸に嫁いでいる。 桂宮家は正親町天皇の第一皇子誠仁親王の第六皇子智仁親王を祖とするが、明治時代に断絶した。 因みに智仁親王は別邸桂離宮を造ったことでも知られる。 今出川門から入って突き当りが京都御所である。 京都御所の北東角あたり。 開国派と攘夷派がせめぎ合う幕末さなかの文久3年(1863)5月攘夷派の急先鋒の公家の一人・姉小路公知(キントモ)が殺されたこの辺りと言われる(猿ケ辻の変)。 公家屋敷が並んでいた当時を偲ぶよすがはない。 現場に落ちていた刀から薩摩藩田中新兵衛の下手人と推定され、町奉行所に連行され、取り調べ中自刃した。 死人に口なし。 真相は今日に至るまで解明されていない。 御所の築地塀の折れ曲がった部分の屋根裏の屋根裏に一匹の木造の猿が見られる。 烏帽子をかぶり御幣を担いだこの猿は御所の鬼門を守る日吉山王神社の使いである。 夜になると付近をうろつき、いたずらをした為、金網を張って閉じ込められたと言われている。 ・姉小路公知(キントモ)が暗殺された「猿ケ辻の変」の真相が分からず終いと言うことは、歴史家、小説家の想像を掻き立てた。 ●町田明弘は「幕末中央政局における削平門外の変ーその背景と影響について」(「日本歴史」2007年10月号)で、公知が勝海舟の意見を受け入れて漸進的な通称容認論に傾いていくのを恨んだ滋野井公寿と西四辻公業が黒幕になり、田中新部兵衛を巻き込んで犯行に及んだと推測している。 ●大岡昇平は「姉小路暗殺」で、姉小路ら過激派を忌んでいた孝明天皇の意を察した中川宮(青蓮院宮)が薩摩に行わせたとしている。 ●司馬遼太郎は「猿ケ辻の血闘」で、会津藩が過激派浪士の動きを探るため送り込んだスパイ・大庭恭平が過激派から公武合体派に傾きかけた姉小路公知を「等持院の木造事件」の残党と共におこなった。田中新兵衛ははめられたとしている。 幕末、権大納言中山忠能(タダヤス)の邸跡 忠能の娘・権典侍慶子を母として嘉永5年(1852)祐宮(サチノミヤ 明治天皇)が誕生した。 祐宮はここで4年間養育された。 敷地内には「祐井」がある。 中山邸敷地内にある井戸 側面に「祐井」と刻まれている。 祐宮2歳の夏干天で井戸が涸れたたため、新たに掘られたもの。 幕末の京都御所周辺図はここをクリック。 |
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2015年02月24日
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