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NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」は現在は吉田松陰の「松下村塾」が舞台になっており、先週では、兄吉田 松陰(伊勢谷友介)の勧めで、主人公の杉文(井上真央)が塾生の久坂玄瑞(東出昌大)と結婚するところまで 物語が進んでいる。 その松下村塾など物語の舞台になっている萩を見たくなって新幹線に乗り込んだ。 新山口駅で、県都山口経由東萩行きの防長バスの特急に乗り換えた。 シーズンオフの所為か、乗客は少ない。 山口を過ぎると特急バスは国道262号線を萩に向かって走る。 その間は山間部と田園風景が続いた。 佐々波、明木辺りの民家の屋根瓦は皆赤褐色で、神戸郊外のの風景とは違う。 新山口から1時間40分ほどで東萩に着いた。 早速、JR東萩駅構内の観光案内所でマップを頂いたり、廻り方を教えていただいた。 そして近くで貸自転車を借り、まずは近くの松陰神社、境内の松下村塾、松陰の実家・吉田松陰幽囚の 旧宅を見に行った。 国道262号線佐々波、明木辺りの風景 赤褐色瓦葺の民家が目立つ 明治23年(1890)8月吉田松陰実家杉家の私祠として松下村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て祀ったのが始まり。 明治40年(1907)9月15日塾生伊藤博文、野村靖の名をもって神社創建を出願。 同年10月4日県社として認可創建 明治40年萩城内にあった毛利家鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して本殿とした。 現在の社殿は昭和30年(1955)完成したもの。 松陰愛用の赤間硯と父叔兄に書かれた書簡の2品が御神体として祀られている。 安政6年(1859)10月20日処刑を覚悟した松陰が郷里の両親(杉百合之助、瀧)・叔父(玉木文之進)・兄(杉梅太郎)に宛てた書簡「永訣の書」の中で詠まれたもの。 松陰の自筆を模写拡大して彫られている。 親思ふ こころにまさる 親ごころ きょうの音づれ 何ときくらん 寅二郎 松下村塾 天保13年(1842)松陰の叔父玉木文之進がここからさほど遠くない自宅で私塾を開いたのが始まり。 その後、外戚・久保五郎衛門が継承し、安政4年(1857)11月5日28歳の吉田松陰がこれを継ぎ、幽囚室から移り、翌安政5年(1858)11月29日まで約1年間講義を行った。 現在は萩市大字椿東(チントウ)であるが、当時松本村と呼ばれていたことから、「松下村塾」の名が付けられた。 松下村塾 木造平屋建瓦葺の小舎 当初あった8畳の1室と後に塾生達の労力によって増築した10畳半の部分からなる。 吉田松陰幽囚旧宅 吉田松陰の父・杉百合之助(家禄26石)の旧宅。親族瀬能吉次郎(家禄49石)から借りたものでかなり広い。 百合之助一家は嘉永6年(1853)清水口から転居してきた。 吉田松陰幽囚旧宅 安政元年(1854)3月伊豆下田で海外渡航に失敗した松陰は、江戸の獄に繋がれ、ついで同年萩の野山獄に移された。 安政2年(1855)許されて、実家へお預けとなり、ここの3畳半一室に幽囚された。 ここで講義をするようになったが、入門者が増えて私塾の形態ができ、安政4年(1857)11月松下村塾に移るまでの1年半ほど続いた。 松陰は安政5年(1858)老中間部詮勝要撃を企てたために野山獄に再入獄する前約1ケ月再びここで幽囚される身となった。 平成21年(2009)開館 松陰の遺品、遺墨などを保存・展示 平成26年10月11日から平成10月13日までの予定で 「「特別展 吉田松陰が生まれた杉家とその家族〜妹たちとの絆〜」を開催している。 平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。 嘸々(サゾサゾ)御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。 親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん ( 中略 ) 私首(クビ)は江戸に葬り、家祭には私平生用ひ候硯と、去年十月六日(正しくは11月6日)呈上 仕り候書とも神主(シンシュ)と成され候様頼み奉り候。 硯は己酉の七月か、赤間関廻浦の節買得せしなり、十年余著述助けたる功臣なり。 松陰二十一回猛士とのみ記し頼み奉り候。
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2015年03月17日
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