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萩には、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」でも度々登場する藩校「明倫館」があった。 吉田寅次郎(松陰)、や小田村伊之助(蚊取素彦)もここで教鞭をふるった。 その跡を訪ねると、それは昨年まで現役だった萩市立明倫小学校の構内にあった。 というより、慶応3年(1867)明倫館が廃校となった後、明治9年(1876)頃には建物は大半の建物は破却され たり、一部はよそに移築された。 その跡地に小学校が建てられたのだ。 近年、移築されていた明倫館の一部の建物がこの旧地に再び集約移築されたのである。 明倫館は5代藩主毛利吉元の代の享保3年(1718)萩城三の丸追廻筋(堀内)に開校した。敷地980坪だった。 13代藩主毛利敬親(タカチカ)の代の嘉永2年(1849)に現在地に敷地15、184坪、建物総坪数11、328坪、 練兵場2,020坪の広大な規模の新明倫館に移った。 向って右前に「明倫館址」の碑が建つ 南門(表御門) 明倫館の正門、 切妻造本瓦葺四脚門 弘化5年(1848)正月に建立 明治15年(1882)西田町の本願寺山口別院萩分院の表門として移築された。 山口別院からの寄付を受け平成16年(2004)建築当初の位置に復原した。 2基ある。 向って左は元文6年(1741)6代藩主毛利宗広が創立の由来を伝える為に建てたもの。 向って右は嘉永2年(1849)13代藩主毛利敬親が新明倫館開校を記念して建てたもの。 向って右の毛利敬親の建てた碑の碑文の一部が削り取られた部分がある。 幕府に対する忠心を意味する「幕命而」の部分である。 嘉永2年(1849)建立 木造瓦棒銅板葺 出入り口は一間一戸 左右に唐破風そ備えた平唐門 両袖に連子格子の塀を付けている。 扉は上部に連子を入れた桟唐戸で両開きとなっている。 孔子を祀った聖廟の前門。 明倫館正門と聖廟との中間に位置し、冸水(ハンスイ)に架かる万歳橋を渡り、聖廟を巡らす石柵内への入り口になっていた。 本願寺萩別院に移されて客殿門となっていたが昭和57年(1982)明倫小学校敷地内の現在地に移された。 明倫館内に建築された剣術と槍術の稽古場。 明倫館の建物で唯一残ったもの。 木造一重入母屋造桟瓦葺平屋建 桁行37.8m、梁間10.8mと南北に長い建物 有備館の名称は大正4年江戸桜田の萩藩邸内にあった藩の文武講習所の名をとって改称したもので、当時の図面では「剣槍稽古場」と記載されている。 小学校の教室に使われそのように改められたが、昭和44年〜45年にかけて保存修理が行われ、移築当初の建物様式に戻された。 有備館は藩士の練武のほか他国からの剣槍の修行者との試合場 即ち「他国修業者引請剣槍場」でもあった。 入口にはその旨の額が架かっていた。 入り口の右手に藩主臨場の場合使う控えの間がある。 文久2年(1862)1月14日土佐の坂本竜馬が土佐勤王党首領武市瑞山の手紙を久坂玄瑞にとどける為萩に来て9日間滞在した。 その間に、有備館にて試合したと言われている。 北半分は板間39畳の剣術場、西側は藩主の上覧場としている。 南半分は土間54畳の槍術場その西側は上覧場としている。 旧明倫館にあった時は剣術場と槍術場は別の建物として分かれていた。 新明倫館に移る際、二つの建物を一つに合わせ現在の位置に移転改築されたものと伝えられている。 |
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2015年03月20日
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