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萩市街を南北に貫く県道64号(吉田通り)の吉田交差点南西の区画一帯をうろついていたら、常念寺筋と呼 ばれる小路を挟んで(西側)野山獄跡、(東側)岩倉獄跡があった。 建物はなく、かって獄舎があった一部が整備され碑が置かれているにすぎない。 設置されていた説明板によると、獄の由来は次の様だった。 正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組 200石)は酒に酔って、道を隔てた西隣家の藩士野山六 右衛門(大組 200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。 この事件の為岩倉は斬首となり、両家も取り潰され、屋敷は藩の獄舎となった。 野山獄跡 野山獄は上牢として士分の者を収容した。 安政元年(1854)海外渡航に失敗した松陰は萩に帰され、ここに投ぜられたが、ここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行った。 この様子を、吉田松陰は安政2年(1855)6月書いた「福堂策」の中で次の様に記している。 「余、野山獄に来りてより、日々書を読み文を作り、傍ら忠孝節義を以って同囚と相切磋する ことを得、獄中駸々(シンシン)乎として化に向ふの勢あるを覚ゆ、是れに因りて知る、福堂も亦難 からざることを」 また維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(尊攘派)、俗論派(保守佐幕派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所である。 元治元年(1864)10月24日野山獄に投獄された尊攘派11人は、11月12日4人、12月19日7人がここで斬首された。それを悼む十一烈士の碑が建っている。 俗論派(保守佐幕派)では文久3年(1863)坪井九右衛門、慶応元年(1865)閏5月椋梨藤太(今NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では内藤剛志が演じていますね〜。)がここで斬首された。 岩倉獄跡 岩倉獄は下牢として庶民を収容した。 安政元年(1854)海外渡航に失敗した松陰と同行した門下生金子重輔(重之助)はここに投ぜられ、安政2年(1855)1月11日病死した。 田中義一筆による「金子重輔君絶命の処」碑、松陰が与えた詩碑が建っていた。 |
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2015年03月23日
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