ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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上千本辺りに来ると、個体差があるが、サクラは均して3,4分先だった。

しかし、この辺りは高いところに位置しているので、目線を下に向けると満開の桜が望めた。

殊に花矢倉展望台とか御幸の芝辺りからの眺望は中千本さらに下千本へと続く満開の桜が素晴らしいもの

だった。


イメージ 1 世尊寺跡
明治初め頃の廃仏毀釈で廃寺になった世尊寺の跡。
本尊の釈迦如来立像は金峯山寺蔵王堂に安置されている。
釣り鐘はこの上の高台に安置されていた。




イメージ 2 ぜんそく地蔵
6体の石造地蔵尊
由来は不詳




イメージ 3 三郎鐘
旧世尊寺の釣鐘 重文
俗に吉野三郎と称される名鐘
初めこの鐘が造られたのは保延6年(1140)で、平忠盛が鵜飼千斤を施入した旨の銘がある。
忠盛が平家全盛時代を築いた清盛の父であるだけに、当時の厚い信仰の様子が偲ばれる。
その後この釣鐘は永暦元年(1160)、寛元3年(1245)に改鋳されている。
したがって、現在のものは約770年前のものと言うことになる。






イメージ 4

                          花矢倉展望台からの眺望
上千本は桜の開花は平均して3分程度だが金峯山寺に下ってい行く参道は満開だった。
先(写真右上)の大きな建物は金峯山寺蔵王堂




イメージ 5 覚範の首塚
花矢倉展望台のすぐ近くににある塚
文治元年12月兄源頼朝に追われて吉野に逃れた義経主従は、金峯山寺の衆徒を味方にできず、逆に横川の覚範が襲ってきたので家来の一人・佐藤忠信が義経の身代わりになって戦い、義経主従一行落ち延びさせてると共に、中院谷(首塚の後ろの谷)で覚範を打ち取った。
その覚範の首を埋めた塚と言われている。

思ふところに斬り伏せて、忠信はしばし休みてぞ、押へる頚を掻き、太刀の先に貫いて、

中院の峰に登りて、大の声を以って、「大衆の中にこの頸見知りたる者やある。

音に聞こえつる覚範が頚をば、義経が取りたるぞ。    門弟あらば取りて孝養せよ」とて、

谷の雪の中へぞ投げ入れたる。(「義経記」巻第五 忠信吉野山合戦の事)




イメージ 6 尾根道の参道
桜並木が続く




イメージ 7

                            御幸の芝からの眺望
花矢倉展望台から少し下の台地。向いに明治8年(1875)の神仏分離で廃された雨師観音があったとされる。
「吉野拾遺」によると、後醍醐天皇が吉野の行宮におられた時のこと、五月雨が降り続くある日のこと、大勢のお供を連れてこの辺りに御幸されると、空模様がますます怪しくなってきた。
傍らの(雨師)観音堂に入ってしばらく休まれるうち、
ここはなほ 丹生の社に ほど近し 祈らば晴れる 五月雨の空
 と詠まれた。
そうすると、急に空が晴れ渡り、うららかな日和になったという。

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