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西国街道は、律令時代には大宰府と京と結ぶ街道としての形はできており、「山陽道」と呼ばれていた。 近世には、寛永10年(1633)幕府の巡察使による巡視を切っ掛けに整備され、寛永12年(1635)には「西国街 道」と改められた しかし、明石ー大阪について言えば、幹線道路としての役目は、西国街道に代わって大正9年(1920開通し た)神明道路(現国道2号線)が取って代わった。 ところで,Wさんとの漫歩は、県道379号線を渡横切って魚住から金ケ崎に向かった。 民家のガレージの奥の藪の隅に標識があった。 ここから東の大道(ダイドウ)池辺りが長坂寺址らしく、奈良時代の瓦が出土しているそうだ。 長坂寺は,推古天皇の5年(597)聖徳太子が建立したという由緒を持つ奈良時代栄えた大寺院である。 南北朝時代の戦乱に巻き込まれて焼失、再興するが、天正7年(1579)三木合戦の兵火で焼失した。 塔頭寺院は28ケ院あったが現在残っているのは遍照寺と延命寺だけだそうだ。 祈りの松の道標(表面、横面) 長坂寺址から200m進むとガードレール、電柱、生垣のキョウチクトウに囲まれた狭隘な箇所に建っていた。 表面に「小式部内侍祷ノ松」、横面には「魚住の太子道」とうっすらとした文字が読めた。 山号は天光山、真宗大谷派の寺院 文明2年佐藤時信(釈浄和尚)創建 観音堂には、平将門の乱をを鎮圧した藤原秀郷の兜にの前に付けていた「一寸八分の観音さん」が祀られている。 享保2年(1717)築、棟梁は左甚五郎と伝えられる 本尊の阿弥陀如来は織田信長が秀吉に与えたものという。 太山寺道道標(金ヶ崎道標)から300mほど進んだ北側に建っていた。 金ヶ崎山の麓に鎮座している 御神体は1.8mほどの岩。 元黒石神社と言っていたが明治時代住吉神社を合祀して金ヶ崎神社に改称 昔旅人は旅の安全を祈願して境内の石1個をお守りに持って行った。 無事に帰ってくることが出来たら御礼に2倍にして返したという。 御神体の石は昔、東の国から来た旅人がここに安置したが、年々大きくなるので村人が祀ったとか。 「神功皇后が三韓征伐の際、懐にいれていたもの」という伝承が残っている。 石段の下には太山寺道が横切っていた。 |
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2015年06月16日
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